涼宮ハルヒの旗魚 後編
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前編 後編

 一面、青の世界。
 水深何メートルなのか分からないが、結構潜らされているらしく少々暗い。
 上を見上げると、俺が乗っていたはずのボートが影のように見えた。日が高ければ太陽も見えると思うのだがまだ朝まだき、輝かしい光の揺らめきなんてものは見えやしない。
 長門のシールドのおかげか、水の中にいるのに普通に息ができると言うのも不思議な感覚だ。ついでに言うなら水圧も感じられないし、冷たさも感じない。
「便利なもんだな」
 って感心してる場合じゃねえな。だいたい古泉は俺でハルヒを釣るなんてワケの分からないことを言ってやがったわけだが、本当にこんなんで釣れるのか? てか何で俺なんだよ。朝比奈さんにコスプレさせたほうがよっぽど釣れそうだ、ついでにハルヒ以外に男もたくさんかかりそうだが。
 そこまで考えて首を振る。朝比奈さんにこんな役をさせるわけにはいかない。だったら俺が喜んで……って、縛られて喜ぶ趣味はないが、取りあえず身代わりにくらいは喜んでなるさ。
 あらためて辺りを見回すが、そんなに透明度が高くないのか、それともやはり光が足らないのか、何もない。泳いでいる魚すら見えないわけで、本当にハルヒは来るのか? それ以前にサメとか来たらヤバイんじゃないのか。おいおい、もしそんな危険種が来たら頼むから引き上げてくれよ、長門。
 普段とまったく違う景色で一人きり、というのはだんだん不安になるもので、俺は極力腹が減ったとか朝飯前にはちょっとキツイんじゃないか、とか関係のないことを考え始めた。朝飯なんだろうな、新川さんの料理は旨いから楽しみだ、なんて考えたとき。
 あまり視界が良くないから突然に感じた。
 銀色の魚体が俺の前方2m辺りを通過した……と思ったらもう消えた。
 速え! 先ほど言ったとおり水圧は感じられないのだが、もし生身でいたらかなりの水圧が感じられたのじゃないかと思うほど速かった。
 速すぎて何の魚か分からなかったのだが、多分サメではないと思う。
 結構でかかったが、まさか。

 そのまさか、だった。

 先ほど通り過ぎた方向からなかなか迫力のある魚影が近づいてきた。かと思うとあっという間に目の前にやって来た。ってでかいよ、怖え!
 考えてもみてくれ。カジキって魚は吻と言う尖った上あごを持っていて、その上あごをこちらに向けて時速100kmで向かってくるわけだ。
 おい、ささるって、止まれ!
 俺の願いが通じたのか、カジキは俺の目の前で絶対不可能だと思われるような急停止をした。吻の切っ先が喉元に突きつけられ、嫌な汗が出る。もう刃物かそれに類するものに襲われるのはこりごりだ。
 しかしこの吻、それに大きな背びれ。確かにカジキだな、などと考えていると、
「何よ、キョンじゃない。何してんのよ」
 ……話しかけられた。
 カジキに。
 いったいカジキの声帯がどうなっているのか、とかそもそも言語を発するに適した口はしていないだろう、などと考えるだけ無駄なんだろう。てか、もう何も考えない方がいい。どんな考察もハルヒカジキの前では無意味だ。
「何してるって聞きたいのは俺の方だ。お前はそこで何をしている」
 ハルヒカジキは首を傾げたような……気がしたが、首ってどこだ。
「知らないわよ。いつの間にか魚になって泳いでたんだもの」
 そうかい。さて、どうツッコミを入れたらいいんだ俺は。
「すっごく気持ちいいわよ! 物凄いスピードだし! あんたも来る?」
「遠慮しとく」
 俺も行くと言えば俺もカジキにされるのだろうか。カジキだったらまだいいが、こいつのことだ、イワシ辺りにされかねない。そしてこいつに捕食される。シャレにならん。
「何よ、ノリ悪いわね。どうせ夢なんだからあんたも楽しめばいいのに」
 なるほど、どうやら夢だとはっきり自覚しているらしい。明晰夢って言うんだっけな。明晰夢は訓練するとかなり自分の思い通りになるから楽しいと聞いたことがあるが、ってハルヒは夢じゃなくても思い通りになるんだが本人が知らなきゃ意味ないか。
 しかしシュールだ。
 ハルヒはしゃべらなきゃどう考えても普通のカジキにしか見えないわけで、ファンタジーにデフォルメされたわけでもない魚と普通にしゃべっているのは縄で縛られ吊られた男。
 童話にすらなりゃしねえぞ、これは。
 だいたい、ハルヒを釣り上げるったって、よく考えたら不可能だ。
 カジキは大型の魚なわけで、今目の前にいるハルヒカジキも3mくらいの大きさはありそうだ。魚は陸揚げすると結構重いから、軽く見積もっても100kgくらいはあるんじゃないのか。暴れないとしても抱えて上がるなんざ不可能に思えるのだが、俺はどうすればいいのだろう。戻るように説得してみるか? 効果は期待できそうにないが。
「ところでだな、ハルヒ」
 魚にハルヒと声をかけるのはなんとなく抵抗があるな。
「俺たちは合宿に来ているわけだが、今日の予定はどうするんだ。このままカジキになっていても仕方ないだろ」
「どうって言われても、目が覚めたらどうせ終わりなんだから、それまで楽しんでたらいいんじゃないの?」
 そりゃお前はそうだろうが、俺たちにとってはこの上なく現実なんだよ。バカバカしいけどな。ハルヒが夢だと認識して目が覚めたら終わりだと分かっていても、実際に目が覚めるのはハルヒが満足したらってことだろう。って、まだ満足してないのかよ。
「もう充分泳いだんじゃないのか? そろそろ腹も減っただろ」
「そういえばお腹すいたわね! 朝ご飯は何かしら」
 お、さすがに食欲には勝てないか。これはいい徴候かもしれない。
「新川さんの飯は旨いからな。俺も早く戻ってありつきたいもんだぜ」
 これは本音だ。実際起こされてからそろそろ1時間になろうとしているわけで、普通に腹が減ってきた。
「んーでも、今魚なんだから、その辺泳いでる魚食べても美味しいのかしらね。ねえキョン、あんたイワシにでもなってみない? あたしが食べてあげるから!」
「勘弁してくれ」
 だからシャレにならんと言ってるだろうが。お前には夢でも俺は現実で、魚にされて食われるなんて最期を想定して今まで生きてきたワケじゃねえんだよ。と言うわけにもいかない。まさか本当に俺を食おうって考えてるワケじゃないよな。
 俺の渋面を見て、ハルヒは多分笑った、と思う。魚のハルヒはいつものようにコロコロ表情を変えない。それがなんとなく寂しく思うのはなんでかね、じゃなくてだからそんな感情よりもこのおかしな現実そのものが何かイヤだ。
「冗談よ」
 笑いを含んだ声でそう言ったので、安心した。
「ま、確かにお腹が空いたしそろそろ目が覚めてもいい頃かしらね。充分楽しんだし!」
 そりゃ良かったな。世の中悪夢でうなされるやつもいるってのに、存分に楽しい夢が見られるってのはある意味幸せな奴だ。
「だったらそろそろ魚から戻ったらどうだ。魚相手に会話してる俺が何だかバカみたいじゃねえか」
 バカみたい、じゃなくてバカそのものかもしれない。魚になっているハルヒはアホだと思うが、ハタから見ればどっちもどっちだろう。
「そうね、あんたがそう言うなら」
 思ったよりあっさりそう言ったかと思うと、カジキはまるで角砂糖が解けていくようにサラサラと崩れていき……代わりにハルヒが登場となった。
 ただし。
 全裸で。
 そりゃ、確かに魚が服着てりゃおかしいかもしれないがだからといってそんなところを忠実に再構成しなくていいだろ、服も構成するくらいお前にはどうってことないはずだ!
 慌てて顔を背ける前に、ハルヒの裸身が網膜に焼き付いている。予想していれば最初から見なかった! 一瞬しか見てない! これは不可抗力だ!
 当のハルヒは自分の姿なんかまったく意に介していない様子で、俺に手を伸ばして近づいてきた、ってだから来るな! その、色々と困る!
「何で顔背けるのよ」
 何でじゃねえ! こういうとこだけ夢なのかもしれない。現実では明らかにおかしいと思うことが、夢だと普通に感じることは多々ある。それともハルヒは自分の格好に気がついてないのか。
「お、お前、何で服着てねーんだよ!」
「え?」
 やっぱり認識してなかったのかよ!
「な、何で見るのよ、エロキョン!」
 だから不可抗力だってーの、勝手にお前が裸になってんだろ!
「まあいいわ、どうせ夢だし」
 夢なら何でもいいのかよ! と思ったが、ハルヒは既に服を着ていた。何でここで北高の制服なのかね、と突っ込んでる余裕もなくハルヒは俺の頭を両手で掴む。こんなときでも馬鹿力だな、地味に痛いぞ。
「現実だったらただじゃ置かないとこよ」
 そいつは怖い、少なくともこいつにとっては夢で良かった、俺にとっては現実だがなどとは言わないが吉。
 先ほどの映像を頭から振り払おうと極力関係ないことを考えようとした俺にハルヒがいきなり顔を近付けてきた。
 何だ?
 焦る俺にハルヒは囁く。
「夢の終わりだから、ね」
 そう言うとふわりと唇を重ねてくる。
 夢の終わり、ね。お前はこうしなきゃ夢から覚めることができないのかよ。
 と内心思いつつそれでも抱きしめてしまったのはまあ、あれだ、ちょっと雰囲気に流されてしまっただけだ。さっきまでカジキだった奴と縛られている奴の間に雰囲気もへったくれもないだろ、と冷静な俺がどこかでツッコミ入れているがこの際無視だ。

 と思ったら。
「うおぉ!?」
 何ともこれまた間抜けな声をあげちまったが、いきなり俺を縛っているロープが引かれて急浮上を余儀なくされたんだ、勘弁してくれ。
 そのまま物凄い勢いで引っ張られ、水面から数m跳躍、ボートに落下する! と思わず目を閉じた俺を誰かが受け止めた。お姫様だっこで。
「へいき?」
 もうちょっと優しく引き上げて欲しかったが、まあ平気だ。それより下ろしてもらっていいか。なんとなく自尊心が傷つけられているような気がする。
「そう」
 相変わらず一言で返事をすますと、長門は俺を下ろした。
「いや、まあ、ありがとう」
 受け止めてくれたことには一応礼を言っておく。
「いい」
 長門のシールドのおかげか、あれだけ水中にいたというのにまったく濡れていない。どうやら帰って着替えなきゃならんこともなさそうだ。気分的にシャワーは浴びたいけどな。
 って、待て。さっきまで一緒にいたハルヒはどうした!
「涼宮ハルヒの再構成を確認」
 さっきまでいたハルヒはまた連結解除され、別荘に元通り再構成したってことらしい。
「お疲れ様でした。さて、涼宮さんが起きる前に僕らも戻りましょうか」
 古泉は朝日の似合う爽やかスマイルを浮かべている。
「お疲れ様でしたぁ。良かったですぅ」
 安心した表情を浮かべた朝比奈さんの言葉があればこの程度の苦労は何でもないような気になるね。

 身体より精神的に妙な疲れを感じはしたが、こうしてハルヒカジキの一本釣りは幕を閉じたわけだ。って、釣ってねーじゃん! などと言うツッコミはこの際入れないことにしよう。ただでさえ俺の頭は混乱気味なのにこれ以上ワケの分からない現実について考察していたら本気で頭がおかしくなる。
 いや、とうにおかしくなっているのか。
 俺はさっき不可抗力で網膜に焼き付けたハルヒの裸身を意識することなく海馬に刻み込んでしまったらしく、頭から離れない上に最後のキスまで思い出しちまうわけで、何でハルヒ相手にこんな桃色な妄想しなきゃならんのだって変な妄想じゃねえぞ勘違いするな、ああもう、俺は誰に言い訳しているんだよ!

 そのまま俺たちが食堂で話していると、ハルヒがいつものテンションで起きてきた。
「おっはよー! みんなちゃんと起きてるなんてえらいわね! それでこそ合宿よ! 特にキョン! あんたは絶対寝坊すると思ったんだけど」
 大きなお世話だ。と言いつつこの事件がなければ寝坊していた可能性は高い。
「お前は朝から元気だな」
「まあね」
「夢見でも良かったのか」
 そう聞くと、何故かぷいっと顔を背けたくせに、横目で俺をチラチラ見ている。
「ま、まあ、悪くはなかったわね」
 何だよ、自分で楽しい夢だと言っていたじゃないか。素直じゃねえな、まったく。
 あの終わり方で今回は「悪夢」と言われなかったことにどういうワケか安心している俺がいるのだが、そこも深く考えないことにする。ええい古泉、ニヤニヤしてんじゃねえ。

 あれだけ泳いだのに泳ぎ足りないのか、ハルヒがその日に遠泳大会なぞを言い出し、肉体的にも物凄く疲れることになったと言うことを付け加えておこう。
「なによ、体力ないわね!」
 当たり前だ、俺は水泳部でも何でもない。
「それより何で目をそらすのよ」
 さあ何でだろうね。どうもお前の水着姿は朝の記憶を彷彿とさせてしまう、なんてことは言えるわけもないだろうが。
 溜息を吐いて空を見上げた俺の目に、カモメだろうか、ゆったりと飛ぶ鳥の姿が目に入った。
 やれやれ、羨ましい、俺も何も考えずに空にたゆたってみたいもんだぜ。
「そうね、空も気持ち良さそうね」
 俺はこのハルヒのセリフをもっと真剣に捉えるべきだったのかもしれない。


 翌朝5時。
「大変です! 起きてください!」
 今度は何だよ! またハルヒがカジキになったんじゃないだろうな。
「いえ、今度はカジキではなくハヤブサらしいです」
 今度は鳥類最速かよって、そんなこと言ってる場合じゃねえ!
「既に『機関』のヘリが待機しています。すぐ来てください」
 考える余裕もなくヘリの前まで引きずられてから気がつく。
「ちょっと待て、カジキだったとき船からロープで吊られたってことはもしかして……」
「問題ない」
「長門? 何だそのロープは! また縛るのかよ! 今度はヘリで宙づりってマジかよ、死ぬって! 勘弁してくれ!」
「ロープが切れることはない。空気抵抗も中和した。問題はない」
 大ありだろうがよ! 古泉、笑ってみてないで止めろって言ってるだろ!
「キョンくん、ファイトです! 頑張ってくださあい!」
 朝比奈さんが応援してくれるなら百人力ですよ、任せて……って無理!
「じゃ、離陸します」
 だから無理って言ってるだろ! そもそも猛禽類は地上にいる動物を狙うんだから空を飛ぶ必要なんかねえだろ! お前はただ俺を吊って飛んでみたいだけだろ、絶対!
 俺の叫びも空しく、ヘリは轟音を立てて離陸した。
 俺をぶらさげて。ああ、無情。

 ちょ、マジ死ねるってこれ、怖えよ!
 誰か助けろ、助けやがれ、助けてくださいお願いします!!
 頼む、降ろしてくれええええええええ!!!

 哀れな男の叫ぶ声は、ただヘリにかき消されるのみであった……。


  おしまい。キョンの無事を祈っててくださいw