五万分の一でも
短編 | 編集

昔のカウンターが5万超えた記念に書いたSS。

 家を出てすぐに雨がぱらついて舌打ちしたのもつかの間、今度は雲の隙間から薄日が差してきた。雨で少し濡れたシャツが身体に張り付いて気持ち悪いが、着替えに戻るのも億劫だ。と言うよりは、遅くなるとあいつが怒るに違いないと思うと戻るに戻れない。
「五月晴れって言葉があるんだからカラッと晴れればいいじゃねえか」
 5月だというのに梅雨を前倒ししたようなジメジメとした空気に悪態を吐きながら、俺は駅前の駐輪場に自転車を止めていつもの待ち合わせ場所へと向かった。その途中、ちらりと時計を見る。
「20分かかってるか。怒ってるだろうな」
 今日はSOS団の探索はない。探索は昨日嫌と言うほど行っており今日は安息日なはずだったのだが、安息日の定義に従っていかなる義務からも開放されようとしていた俺は一本の電話ですべてが台無しになってしまったというわけだ。
『あんたどうせ暇でしょ! 北口のいつもの場所に集合ね! 30秒以内!』
 キリストやマホメットと違って安息日というものを定義する気はないらしいな、この団長は。
 俺の家から北口まで普通に自転車で20分以上かかるところを支度を含めて20分で着いたのだから褒めてもらってもいいと思うのだが、どうせこの団長様が迎える言葉は時候の挨拶も真っ青なくらい同じ言葉と決まっている。だいたいどう考えたって30秒で着くわけないってことくらいあいつだって分かってるだろうに、何で俺が遅いといつも怒るんだろうな。

 日曜日の駅前は人が多く、俺は横断歩道を渡ろうとする人をかき分けるようにいつもの場所に向う。歩いてくる俺を腕を組んで待ちかまえ、姿を見るなり「遅い、罰金!」というセリフで迎えられるとばかり思っていた俺は意表をつかれることになった。
 ハルヒという女はいつも必要以上にエネルギーを放出していて実は地球温暖化に一役買っているんじゃないかと疑うほどなのだが、今日はその特有のパワーが感じられない。いつもの場所にボーッと立っているハルヒは群衆に埋もれてともすれば見失いそうな雰囲気を漂わせていて、俺が近づいていることにも気がついていないようだ。
 こいつは本当にハルヒか?
「おい、ハルヒ?」
 ボケッとあさっての方向を見ているハルヒに声をかけると、あからさまにビクッと身体を震わせた。おいおい、驚きすぎだろ。
「あ、な、何よキョン、驚かさないでよ!」
 一瞬、本気で驚愕の表情を見せたハルヒは、すぐにいつも通りの強気の顔に戻って俺を睨み付けた。
「あんた遅刻よ! 罰金!」
 やれやれ、結局そうなるのか。
 俺の手首を掴んで歩き出すハルヒの後頭部を眺めつつ、俺は密かに溜息を吐いた。

「で、今日はいったい何の用なんだ?」
 一応聞いてみるが、どうせたいした用事ではないだろう。今までもこんな風に突然呼び出されたかと思うと、単なる買い物の荷物持ちにされたことが何度かあった、ってそれがわかってるのに今日もこうやって来てしまう俺はどれだけお人好しなのかね。
 俺の問いかけに、ハルヒはアイスコーヒーを一気のみすると、いつになく歯切れの悪い調子で言った。
「ちょっと、付き合って欲しいところがあるのよ」
「どこだよ」
「いいから! 来れば分かるわよ!」
 俺の追求にいつもの調子に戻ったのだが、一瞬の逡巡するような表情を俺は見逃さなかった。
 何だってんだ、いったい。
 ハルヒに押しつけられるまでもなく伝票を手にしてしまう事実に少し悲しくなってしまうのだが、今日は昨日と違って2人分だと思うと気が楽だ。って普段なら奢らなくていい日に奢ってるんだからむしろ気が重くなりそうなもんだが、そうでもないのはなんでかね。
「じゃ、行くわよ!」
 会計が終わるのを外で待っていたハルヒは、俺が出てくるなりそう言うとまた手首を掴んで歩き出す。そろそろ手首が痛いんだが、そのまま俺は駅まで引きずられるように連れて行かれた。

 駅から私鉄のいつもと違う路線に乗り2駅、更に別の私鉄に乗り換えて2駅。
 到着した場所を見て、俺は心底意外に思った。
「お前、野球は興味ないんじゃなかったのか」
 着いた場所は高校野球と某プロ野球チームの本拠地として有名な球場であった。今日はそのプロ野球チームの試合がデーゲームで行われるらしく、首位をキープしているせいもあるだろう、かなりの人でごった返していた。
 しかし、ほぼ1年前になるが、俺はハルヒのあの独白を覚えている。ハルヒが今の奇天烈と言うか奇想天外というか、とにかくそういう性格を得るに至った最初のきっかけ、その球場はおそらくここだろう。だがあのとき、ハルヒは野球なんか興味なかった、そう言ったと思うのだが。SOS団で野球の試合に出て興味を持ったのだろうか。
「全然興味ないわよ、野球なんて。でも両親が見に行く予定だったのに急用でダメになったんだからしょうがないじゃない。チケット余ったからお前行けって渡されたのよ。せっかくあるのに無駄にするのももったいないでしょ」
 なるほど、親父さんはこのチームのファンなのか、ってこの市に住んでいる野球ファンは大半がここのファンだろうな。まあ俺も嫌いではない。
 しかしもったいない。今首位を走っているこのチームのチケットなら金を出してでも欲しい人が多いだろうに、わざわざ娘とはいえ興味のない奴にくれてやるとはね。当日券は売り切れました、との掲示を横目に見ながら俺はチケットを入手できなかったファンに少しだけ申し訳ない気持ちになった。
 ハルヒは適当なゲートでチケットを俺の分も一緒に渡し、2枚同時にもぎってもらうと早速俺に命令する。
「先に行ってるから飲み物買ってきなさい! 暑いったらないわね!」
 結局ここに来ても俺は雑用でしかないらしい。って、さっき奢ったアイスコーヒーだけじゃ飽きたらずここも奢りかよ!
 都合の悪いことは聞こえないという特殊なフィルターをつけたハルヒの耳に俺の文句が届くわけもなく、ハルヒはさっさと行ってしまった。やれやれ、飲み物は何でもいいのかよ。

 しまった。飲み物を両手に持って俺は途方に暮れた。
 ハルヒは俺の分のチケットも一緒にもぎってもらって持っていってしまったわけで、つまり座席がわからん。全席指定だったよな、確か。そして球場はまもなく試合開始で満員御礼、見渡す限り人、人、人。
「まったく、席番くらい教えてから行けよな」
 今日はハルヒはどんな服を着ていたっけ、確か黄色のTシャツにデニムのスカート……って黄色かよ。よりによってチームカラー、見渡す限り黄色だらけじゃねえか。
 取りあえず通路を一番下まで降りて見上げるように座席を見渡してみる。この入り口から入ったってことはこの辺にいるだろうと思ったんだが、見当たらない。入るゲート間違えたんじゃないだろうな、と少し離れた方に目をやると……いやがった。おい、そこだったら隣のゲートから入った方が近いだろ、と1人ごちつつ俺はグラウンドを睨み付けて座っているハルヒの方へと向かった。俺の目がいいことに感謝してくれよ、まったく。

「ほらよ、コーラで良かったか」
 買ってきた異様に高いコーラを差し出しながら声をかけると、ハルヒはハッとしたように俺を見た。やはり様子がおかしいが、その理由はなんとなく解っているつもりだ。
「あ、うん、ありがと」
 めずらしく買ってきたものに文句も言わず素直に礼を言うハルヒに少し面食らいながら、俺も座席に着いてコーラを啜った。炭酸が喉を抜ける感覚が気持ちいい。
 しばらく2人とも無言だった。ハルヒは不機嫌そうな顔をして主にグラウンドを睨み付けており、そんなハルヒが気にならないわけではないが、俺もどう言っていいか分からない。
 ハルヒの様子がおかしい理由なんて聞かなくても分かる。1年前に聞いたあのハルヒの独白。球場で感じた自分が卑小であるという感覚、自分は特別じゃなく大勢の中の1人でしかないという現実。そんなものは生きてりゃ誰でも漠然と感じるもので、しかもそのうちある程度当たり前のこととして受け入れざるを得ないものだ。しかし小学生のハルヒは受け入れられなかった。
 そして、今、高校生のハルヒは?
 なんて考えるまでもなく、ハルヒは自分が大勢の人間と同じだなんて認める気は全くないはずだ。SOS団団長という肩書きはきっとこいつの中では何よりも偉く特別なんだろう。
 それでも今、ハルヒの表情を見るとその自信が揺らいでいるように見える。小学校のとき、自分の周りが世界で一番楽しいと信じていたハルヒ。ある日、本当にたいしたことないきっかけでその信仰が破綻した。
 ハルヒはこの1年、とても楽しかったはずだ。一度諦めた「世界で一番楽しい」自分を、SOS団を通じて取り戻したはずだ。ずっと隣で見ていた俺が一番分かってるさ。そのやり方がめちゃくちゃなのはこの際目を瞑っておく。
 だが、今日、ここに来てハルヒは子供の頃に感じた衝撃を思い出しているに違いない。この球場にいる人間、いや、日本にいる大勢の人間の中で自分がまたありふれた出来事に囲まれた詰まらない人間なんじゃないか、そう感じ始めているのかもしれない。

 あのとき、1年前のあのとき、ハルヒの心情吐露に対して俺は「そうか」としか言えなかった。どう言っていいか分からなかったし、そのときのハルヒの気持ちをトレースしようにもわからなかったから。
 あのときもっと気の利いたことが言えれば、その後あんな苦労することもなかったのかもしれないと苦笑する。でもあれは俺にとっても必要だったのかもしれないな。あれがなかったらSOS団という奇妙な集まりの中で、非常識なプロフィールを持つ連中と深く関わり合おうなんて気にもなれなかったかもしれない。
 俺はあらためてハルヒを見た。形の良い眉を寄せて前方を睨み付けているあたり、入学したての頃を思い出すね。世の中何も面白いことが起こらないってことにイライラし続けていたあの頃。おいおい、また戻ったりしないでくれよ。せっかくいい笑顔ができるってのにもったいないだろ。
 さて、このハルヒに何か言ってやらなければ、と考える。1年前に何も言えなかった後悔と懺悔も込めて。しかし、なんと言おう?

「ねえキョン」
 って、まだ何も思いついてないのに先に話しかけられた。
「な、何だ?」
 さて、俺が用意すべきはツッコミなのか何か哲学的な引用なのか。
「あんたさ……」
 少し間を開けて、ハルヒは俺を見た。
「自信ある?」
「は?」
 予想外の問いかけだ。てっきり1年前のことについて言われるんだと思ってたし、まあ予想していた問いの答えも用意はできてなかったんだが、それにしても自信て何だ。目的語をはっきりさせてもらいたい。
「すまん、意味がわからん」
 いきなり「自信ある?」と聞かれてそれが何に対してか分からずに「ある」と答えられる奴なんていないだろ。いや、ハルヒならそう答えるかもしれないが。こんな意味不明根拠なしの自信に満ちあふれている奴もめずらしい。普段なら、な。
 ハルヒは3歩歩いて物事を忘れる頭の悪い鳥でも見るかのような侮蔑的な視線を寄越した。
「あんた去年あたしが言ったこと覚えてないの?」
 いや、一字一句とは言えないが覚えてるさ。今まさにそのことを考えていたとこだが、だからと言っていきなり自信があるかという問いかけに繋がる理由がわからん。
「だから、あんたはここにいる人間の中で一番面白い人生を送ってる自信があるかって訊いてるの!」
 最初からそう言え。単語だけで会話する奴は知り合いに1人も居れば充分だ。
 しかし、俺に聞くか。お前はお前自身の人生が面白いかどうか、そっちの方が気になってるんじゃないのか。それとも自分が作ったSOS団の面々が面白いと感じているかどうかに自信がなくなっているのか。
 どっちにしてもらしくねえぞ。
「お前はどうなんだよ」
 俺の答えなんか決まっている。だからこそ先にハルヒの答えを聞きたかったんだが、やっぱり怒られた。
「あたしが訊いてるんだから質問で返すな!」
 はいはい、悪うござんした。しょうがない、俺から答えるか。
「自信があるに決まってんだろ」
 そう、この球場の中で、いや、日本中で俺より面白い目にあった奴がいたら出てきてみろ。絶対にない、と言い切ってやる。ある意味大変な目と言っても差し支えないが、それにしても本にしたら9冊くらいは出版できそうなくらい面白い目にあってきたんだぜ、俺は。
「誰かさんのおかげで人生楽しくてしょうがないぜ」
 まったく、まさか入学してすぐに話しかけた後ろの席の妙な女に文字通り人生を変えられるとはね。果たして殺されかけたり世界ががらりと変わってしまって走り回らされたりしたことまで楽しかったと言っていいのか疑問が残らないでもないが、過ぎてしまえば普通ならあり得ない体験ができたとも言える。もう2度と体験したくはないけどな。
「で、お前はどうなんだよ」
 俺の答えが意外だったのか、ハルヒは目を見開いて俺を見つめていた。何だよ、面白くなかったとでも言うと思ってたのか。お前が巻き込んだくせに。
 俺の質問に、ハルヒは我に返るとその瞳に超新星爆発でも起こしたかのような輝きを宿らせた。
「そんなの訊くまでもないわ! あたしより楽しんでる奴なんかいるわけないじゃない!」
 そう言うと手でピストルの形を作って俺に向ける。
「あんたにだって負けてないんだから、バカキョン!」
 さっきまでの憮然とした表情はどこへやら、すっかりご機嫌モードにシフトしたハルヒは残りのコーラを一気に啜ると、俺に今日初めての100Wの笑顔を向けた。
「わかったわかった、じゃあ俺は2番でいいや」
「何よバカキョン、諦めるの早すぎるわよ。あたしに負けないくらい人生楽しみなさい!」
 言われなくてもそうするさ。ただし……
「お前がさっきみたいな顔してたらその限りではないけどな」
「どういう意味よ」
「さてね」
 俺が楽しむためにはお前が笑ってることが必要条件なんだよ、とはさすがに言えない。結局俺はハルヒが楽しそうにしていないと落ち着かないわけで、そう言う意味では結局こいつには敵わずいつも2番に甘んじなければならないのかもしれないが、それでもいいだろう。
「ちょっと、誤魔化してるんじゃないわよ!」
 尋問する気満々だな、こりゃ。さて、どうやって誤魔化そうか。
「なあハルヒ」
「何よ」
「俺もお前も確かにこの空間の中では5万分の1でしかないけどな……」
 そのとき、スタメン発表の場内アナウンスがあり、一気に沸いた歓声によって俺の声はかき消された。球団マスコットが何やら選手の物まねをして大ウケしているらしいが、残念ながら各選手のバッティングフォームのくせが分かるほど俺はコアなファンではない。
「ちょっと、聞こえなかったわよ! なんて言ったのよ! ちゃんと言いなさい!」
「何も言ってねえよ!」
 ハルヒは満面の笑顔のくせに目に怒りの色を含ませて俺を睨む。
「嘘、何か言ってたわよ!」
「単なる妄言だ、気にするな!」
 誤魔化そうとして墓穴を掘っちまった。なおさら言えるわけないじゃねえかよ。
「ダメ、言いなさい! 言わなきゃ後で罰ゲームよ!」
「だから何でもねえって言ってるだろ! って襟を掴むな、シャツが伸びる!」
 って言うか顔が近い!
 いくら脅したって絶対言わねえからな!

 確かにこの空間の中では5万分の1でしかないけどな、お前がそうやって笑ってる限りは例えこの球場の反対側にいたって俺はお前をすぐに見つける自信があるさ、なんて2度と言ってやるもんか、畜生。


  おしまい。