半夏雨
短編 | 編集

 なんてこった。
 今日7月に入ったばかりといえばまだ梅雨最盛期で、当然雨が降ることなんか天気予報を見なくても空を見れば充分予想出来るってのに、よりによって傘を忘れてしまうなんてな。梅雨も後半になると雨の降り方は激しく、走って帰れば大丈夫なんてとても言えるような状態じゃない。2~3分もすれば全身濡れ鼠、下手すりゃ鞄の中の携帯も壊れそうな勢いである。これが夕立だってならしばらく待てばいいのだが、梅雨の雨ともなればいつ止むともしれず、誰もいない昇降口から激しく降ってくる雨を途方に暮れて眺めていることしか出来なかった。
 誰かさんのように職員用の傘をかっぱらってくるか、と思ったとき、後ろから誰かが歩いてくる足音がしたので振り返る。なんだ、お前か。
「やんなっちゃうわね、この雨」
「まったくだ。しかも俺は傘持ってないしな。お前持ってるか?」
「あたしも持ってないわ。職員室に寄ったけどもうなかったもの。みんな同じこと考えてるのかしらね、1本くらい残しておきなさいよ」
 お前のためにわざわざ自ら進んで濡れることを良しとするお人好しなんか蜂蜜好きな黄色い熊くらいしかいないだろ。
 しかしハルヒも傘を持っていないとなるとどうしようもない。持っていれば不本意とはいえ同じ傘に入れてもらうことを考えていたのだが。
「こういう日は傘置きにあるのも壊れた傘くらいなのよねー。どこかで調達出来ないかしら」
 人の物を使うことに良心の呵責を覚えないのかお前は。傘置き場を漁っているハルヒに呆れた視線を投げかけてから再び灰色の空に目を戻す。ハルヒが本気になりゃ天気くらいどうとでもなりそうだが、もちろんそんなことをさせるわけにはいかない。たかだか1度濡れることを世界の物理的秩序と引き替えにする気はないんでね。
 やれやれ、と溜息をついてなんとなく足下を見やった俺は、そこにさっきまではなかったものを発見した。なんだ? いや、さすがに最初から足下にあったなら気がついてるさ。絶対さっきまではなかったと言い切れる。何でこれが今ここにあるんだ?
 子供の頃に使ったような黄色い傘。今見ると随分小さく見えるな。しかし、どっから出てきたんだ、これ。
 ……考えるまでもなくハルヒが何かしたとしか思えない。しかし理由がわからん。もし傘が欲しいと思うなら、何もこんな子供用じゃなくて普通の傘を用意すればいいじゃねえか。何を考えてるんだ、いったい。
 試しに傘を開いてみたが、やはり小さい。1本しかないがこれで2人入るのはちょっと無理だな。雨が激しすぎる。
 俺が首を傾げていると、ハルヒが俺の持つ傘に気がついたらしい。
「あら、傘持ってるじゃないの!」
「いや、持ってたんじゃなくて、今そこにあったんだよ」
 どう説明したものかわからないまま適当に言うが、ハルヒは別に傘がそこにあったことには疑問を持っていないらしい。
「子供用? 何でこんなところに子供用の傘があるの? 誰かの親が弟か妹でも連れて学校に来たのかしら」
 その可能性もあるが、違うと思うな。これが最初からなかったことは間違いなく、途中でその傘の持ち主が来たなら俺たちの目に付かないわけはない。
「わからん」
 それ以外にこたえるべき言葉がみつからない。
「うーん、これじゃ小さすぎて2人じゃ入れないわよね。……ねえ、キョン?」
 最後の呼びかけだけ、がらりと声の調子が変わった。どう説明すればいいのかわからんが、いつものハルヒとは違う。何か企んでいるのか?
「なんだ?」
 警戒しながら返事をする。
「知ってる? 今日はね、天から毒が降ってくるのよ」
「なんだ突然」
 天から毒? 雨ならさっきから鬱陶しいほどに降っているが、これが毒なら人も生き物もとても生きてはいけないだろうが。
 ハルヒは俺の言葉なんか聞いちゃいないように、繰り返す。
「天から毒が降ってくる」
 そして、見たこともないような微笑みを浮かべて俺を見つめた。何だ、何がいいたい。これは何かの謎かけか? 古泉あたりに入れ知恵でもされたのか?
「この傘じゃ、2人は入れない。だから、あたしかあんた、どっちか1人は死ぬの」
 何を言ってるんだ? お前がどんな不思議ごとを探していたって、毒が降ってくるとか誰か死ぬとかそんなことは望んでいないんだろ? さっきまでいつものハルヒだったってのにいったいどうしたって言うんだ。
「ねえ、キョン」
 その声と表情は俺の知らないハルヒ。ハルヒはこんな顔はしない。こんな────“女”を意識した声は出さない。
「あたしが死ぬかあんたが死ぬか、あんたならどっちを選ぶ?」

 ぞくり、と背中に何かが走った。


「…………」
 気がつくと俺は天井を眺めていた。あれ? 俺さっきまで学校にいて、ハルヒと……。
 まだはっきりしない頭で何とか現実を把握しようと努力していると、突然けたたましく目覚ましが鳴って俺は飛び上がるほど驚いた。目覚ましの音は急速に俺を現実に引き戻し、先ほどまでのことは夢であったと告げている。
「夢、か」
 なんとなくホッとして目覚ましを止めた。意識がはっきりするに連れて夢であったとの認識が濃くなってくる。以前に見た現実感がありすぎる夢とは違うな。しかし何でまたこんな夢を見るんだ、俺の頭はどうなってやがるんだ。
 勢いよくドアを開けて妹が乱入してきた。起きている俺を見てきょとんとした顔をしている。
「あれえ? キョンくん起きてるの? 雨でも降るのかな」
 おい、さりげなくひどいことを言うんじゃない。そんなに俺が起きてるのがめずらしいか。第一梅雨なんだから俺が起きてようが寝ていようが雨が降ってもおかしくないだろうが。
 妹を追い出して支度を始めつつなんとなくカレンダーを見てみる。昨日めくっておいたカレンダーは新しい月を示しており、今日はその最初の日だと教えてくれた。「1」の数字の脇に小さく「半夏生」と書いてあるのを見て、俺は先ほどの夢の理由に思い当たった。確か昨日の天気予報で、今日は半夏生だと言っていたな。昔から天から毒気が降ってくると言われており、井戸に蓋をしたりその日には野菜を収穫しないようにしていたそうだ。そんな話が頭の片隅に残っていて、あんな夢を見せたのだろう。しかしよりによってハルヒかよ。どうせ知り合いが出るなら朝比奈さんがいいに決まってるじゃないか、頼むぜ、俺の頭。
 窓の外を見ると、今にも降り出しそうなどんよりとした灰色の雲が空を覆っていた。なるほど、こんな空なら毒でも降ってきそうって気にもなるな。
 ……今日は傘を忘れないようにしないとな。


 もうすぐ期末テストが始まるということで多少は勉強に身を入れなければならないと思いつつ結局ほとんど授業の内容なんか理解出来ないまま放課後になり、これまたいつも通りの無意味で意義を今更見出すことも放棄している時間を過ごしていた。
「あら、雨が降ってきたわね」
 窓の外を眺めていたハルヒが呟いて、俺は何故かドキッとする。今朝の夢はあらかた頭から抜けているのだが、最後の部分だけはやけにはっきりと覚えていて、まさかという気にさせられる。だいたい、俺はちゃんと傘を持ってきているんだから正夢になりうるわけもない。
「雨がひどくならないうちに帰った方がいいわね。今日はもう解散!」
 いつもより早い時間で終了宣言を出したハルヒは鞄を引っ掴むとそのままさっさと部室を出て行ってしまった。
 やれやれ、いよいよ正夢にはほど遠い結果となってきたな。どうもハルヒの出てくる夢ってやつは何かあるんじゃないかと言う気になっている自分に気がついて苦笑する。よしてくれ、そう毎回何かあっても大変なだけじゃねえか。

 残された俺たちも帰り支度をするか、と思ったが、長門は時間まで本を読んでいたいといい、朝比奈さんは着替え、教室に忘れ物をしたという古泉も去ってしまって結局1人で昇降口へと向かうことになってしまった。まあいいけどな。

 靴を履き替えて外に出ようとして、そこに佇む駅前で主人が出てくるのを待っている忠犬のような人影に気付いて俺は足を止めた。先に出て行ったのにまだ残っているってことは、もしかして。
「よう、帰らないのか」
 先ほどより強くなった雨を見ながら隣に立つと、俺に不機嫌そうなまなざしを向ける。いや、雨降ってるのは俺のせいじゃねえぞ。
「傘忘れたのよ。職員室に寄ったけどもうなかったし。みんな同じこと考えてるのかしらね、1本くらい残しておきなさいよ」
 おいそのセリフどっかで聞いたような気がするんだが、気のせいか。
「あんたは傘持ってるの?」
「ああ」
 そう言って傘を広げると、ハルヒに差し出した。
「ほら、入れよ」
 子供用の傘じゃないから、多少濡れるかもしれないがちゃんと2人で入れるぜ。
「な、なによ、あんたにしちゃ気が利くじゃない」
 ふと、また今朝方の夢を思い出す。あれは結局夢でしかなく、この目の前にいるハルヒはいつも通りで反応も予想通りだ。こいつが俺かハルヒかどっちかが死ぬなんて選択を迫るわけもないが、もしあの夢と同じように今降っている雨に毒が含まれているとしても、どちらかが死ぬなんて選択は絶対にしない。よく考えなくても死ななくていい選択肢なんかたくさんあるじゃねえか。親に迎えに来させてもいいし、いっそ文化祭のときみたいに部室に泊まりこんじまってもいい。どうせ毒が降るのは今日だけだ、明日になればどうとでもなる。
 そう、死ぬとかそんなことを考えるだけバカバカしい話だ。だいたい、ハルヒが俺やハルヒ自身、それにSOS団の連中もそれ以外のどんなヤツのことだって死んで欲しいなんて思うわけがない。あの夢は多分「毒」という言葉から連想した俺の妄想でしかないのだろう。

「何ボーッとしてんのよ! 早く帰るわよ!」
 ハルヒに急かされて雨の中を一歩踏み出した。雨脚はどんどん強くなっているようで、確かに早く帰った方がいいな、これは。
 傘を弾く強い音を聞きながら、なんとなく、ハルヒの方に傘を寄せる。俺の肩に雨がかかるがまあこいつが濡れたらそれはそれで文句を言いそうだしな。だったらまだ自分の肩を犠牲にした方がマシだ。別に今朝の夢が気になったとかそんなことはない、断じてない。だいたいこれで俺が死ぬわけはなく死ぬくらいならハルヒなんか放ってさっさと帰ってるさ、間違いない。
 ハルヒは俺が濡れていることにに気がついたのか、突然傘を持つ俺の腕に抱きつくように身体を寄せた。
「お、おい?」
 突然の行動に戸惑いながら声をあげるが、ハルヒは俺から視線をそらして首だけ明後日の方を向いている。おい、首が痛くならないかその体勢。
「くっついてないと濡れるから仕方ないでしょ! 試験前だし、あんたが濡れて風邪でもひいて赤点なんか取られたらSOS団の活動に支障がでるし! ああもう、いいから早く行く!」
 大昔に流行った人形が乗り移ったかのごとく腕に抱きつかれては少し歩きにくい気がするんだが、無理に振りほどくこともないだろう。だが夢とはまた違った意味でハルヒらしくないような気もする。
「半夏生は毒が降るらしいからな。まあしばらくそうしていてくれ」
 毒に降りかかられてはかなわん、ということにしておこう。俺は俺で俺らしくないとかそういうツッコミは封印しておいてくれ。なんて、俺はいったい誰に頼んでいるんだろうね。
 腕に感じる温もりと押しつけられる柔らかさに戸惑いながら帰路につく。なんとなく半夏生の雨に感謝したい気分にもなるんだが、それが何故かとは考えないことにしよう。

 いつの間にか普段の調子に戻っているハルヒの笑顔に一足早い夏空を思い浮かべながら、俺は梅雨はいつ頃あけるのかねなんて考えていた。
 まあそれでも、たまにはこんな雨の日も悪くはないか。


  おしまい。


Gimma_Akito様が続きを書いてくださいました↓
今日は何の日?