涼宮ハルヒの戦国時代 三章其の二
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 まだ闇が空を支配する中、密かに西国街道を東へ駆ける。幾度となく古泉と通った路を、まさか武装して行くことになるとは思いもしなかった。しかもいつか、そうだ春日姫と初めて会ったときだ、あのときは臣下として涼宮氏の敵を追い払うという話をしに行ったというのに、今度はその涼宮氏を伐ちに行くというのだから本当に世の中どう転ぶか分かったもんじゃない。

 涼宮氏の兵はあわせて二千五百程度である。そのうち八百は古泉の兵、菟原の家老殿は三百ほど動かせる。この時点では数の上で負けているのだが、実際外様の小勢力は参戦を表明しているので、ほぼ拮抗していると考えていいだろう。
 その上で、菟原の家老殿がやってくれた。
 小清水の東、武庫郡と川辺郡の境に小清水城の支城がある。川沿いの平城で小城ではあるが、ここは譜代でもかなり涼宮氏よりの家臣が守っていた。俺たちが小清水を囲んだとき背後を突かれる恐れがあるのでどうしてもそちらに押さえを置かねばならない。しかし人数が拮抗している上にこちらが攻城になることを考えると、余計な人数を置きたくないと思っていた。
 この家臣を、菟原の家老殿はあっさりと調略してしまったのである。
 とは言え積極的な味方になったわけではなく、ただ背後は突かないとの約束を取り付けただけではある。しかしそれに関して血判を押した誓紙まで取ってきたのだから驚きだ。この時代、誓紙は簡単に背けないのだから、当面は背後を気にせず戦えるということだ。もちろんこちらの戦局次第では手のひらを返される恐れは未だに残っているのだが。

 さて、話を戻そう。
 未明の暗がりを駆けているのは早朝に小清水に到着するためである。古泉率いる三百ほどの兵は前日に菟原に入っており、攻城戦に先鋒というのもおかしいが、それでも先陣を切ることになっているからだ。攻城をやる場合、柵を作り櫓を建てたりするものだが、それは後陣に任せていきなり攻め立てる。一種の奇襲だが、それにより徹底抗戦の意志を削ぐのが目的で、ここで城が落とせるとは誰も思っていない。だがそれでも、そのための火縄銃や火矢を大量に用意している。
 俺たちが行動を起こすことは三木にいる羽柴にも伝えられており、羽柴方はそれに呼応する形で補給路にある砦を落とすことになっている。ここが落ちれば三木への補給は断たれ、羽柴方の勝利も近い。だがそこでこちらが負けてしまっては意味がない。
 古泉が先陣ということは当然俺も先陣の中に含まれているわけで、ここで何かしら戦局の流れを作ればそれなりに功績も大きいが、逆に危険も大きい。国木田は本当に留守居を申し出て花熊に残ることになったからここにはいない。果たして花熊とこっちのどっちがいいかと言われるとどっちもどっちだがな。

 早朝まだ日が昇らないうちに小清水に到着した。間をおかずにすぐに古泉の命令で隊を二つに分けて展開する。さて、小清水からどの程度の物見が放たれたのかはわからないが、こちらの動きはとっくに掴んでいるはずだ。しかし遠目に見る小清水城は静まりかえっているようにしか見えない。
 事前情報では、小清水城に入った兵はあわせて七百ほどである。以前述べた武庫郡境にある川沿いの支城には百五十ほどいるが、こちらは今のところ敵ではないので無視をする。それ以外の他郡にある城にも兵はいるはずだが、それはこちらに味方してくれた勢力をそのまま押さえに回しており、簡単に小清水までは出てこれないはずだ。
 だからといって、いくら優勢に見えてもあわせて三百の兵で寄せるほどの冒険をする気はないので、この日は銃撃戦に終始する予定である。こちらの人数が少ないと見てうって出て来られる可能性もあるが、その対応も含めて検討済みだ。
 主力隊が城の西側から攻撃をしかける頃、俺は一部の人数を率いて反対の東側に回った。途中城下町を抜けるか裏を回るかのために物見をやったが、その報告を聞くに人の気配がまったくない。事前情報からすでに城内に集められたのはわかっているのだが、それにしてもなさ過ぎる。俺ならこの辺の家々に伏兵を置いて城下を抜ける部隊に奇襲をしかけるのだが、その気配もないらしい。涼宮家の戦術家と言えば古泉の親父殿か菟原の家老であり、この二人が抜けたとなっては俺程度が考えつくことすら思い当たる人間がいないってことなのか。

 そのまま城下を抜ける。ここは後陣が押さえる手筈になっているし、おそらく本営も置かれるだろう。俺たちはとにかくこの少ない人数で本陣が来るまで持ちこたえなければならない。さて小清水勢はどの程度抗戦してくるか。
 すでに西側では古泉の陣頭指揮で攻撃が始まっていた。激しい鉄砲の音が響いてくる。それが敵の物か味方の物かと考えてる暇もなく、俺はあらかじめ決めていた位置に隊を置いた。
 こちらからの攻撃は最初は銃を使わずに火矢で行う。西側での攻撃に気を取られている間にこちらから火をかけて城内の混乱をさそうという魂胆だ。
 今のところ古泉からはなんの伝令もない。だったら予定通りに始めてもいいだろう。到着早々に弓隊を配置に付かせ、一斉に射かけさせた。
 たちまち城内の数カ所から火の手が上がった。その時点で一度弓隊を下がらせ様子を見る。さて、すぐに火を消したり反撃に出たり出来るようであれば、この城を落とすのは容易ではないだろう。
 しかし、火はなかなか消されず、こちらへの反撃もどう考えても単発の銃が十数発とんできただけであった。西側に気を取られすぎたと言うこともあるだろうが、どうも城内は騒然としているだけで系統立った指揮が執られていないようである。
 ここ一年以上、小清水の兵は合戦を経験していないことに思い当たり、俺は思わず気の毒にさえなった。
「これは早々に落ちるな」
 思わずそう呟いたが、この予想は少しだけ外れることになる。
 俺は弓隊に変わって鉄砲隊に前に出るように指示を出した。

 その日は弾が尽きるまで撃っていいと言われていたので取りあえず夕刻まで撃ち続けたといっていい。その間に後陣が到着、ようやくきちんと陣を張ることができた。敵の反撃は予想していたよりも遥かに弱く、拍子抜けとしか言い様がない。もしかしたら弱いと見せかけて本隊が来てから一気に叩く作戦かもしれんがあまり意味がない。人数が増えてから叩くよりも先陣を潰す方が簡単だし相手の士気も落ちる。それを進言する人間がいないのか、それとも当主が受け入れないのか。
 人がこれほどいない状態で籠城が持ちこたえるのだろうか、と他人事ながら心配になるほどであったが、実はそんな心配をしている場合ではなかったのだ。
 一人、腕も頭もある人間が城内にいることを俺は忘れていたわけではない。しかしそいつが合戦に参加しているだろうという意識がすっぽりと抜けていたのだった。


 夜襲をしかける場合を除いて、たいてい朝から夕刻まで戦闘は続く。
 その日の夕刻、初日の戦闘が終わると俺は手勢を引き連れて西側にいる古泉の隊と合流した。今日の奇襲もだが、俺の指揮官は古泉である。
「初日はまずまずの成果と言っていいでしょうね。こうまで抵抗がないのは予想外でしたが」
 城外からひたすら撃っているだけなので、城内の人的被害は少ないだろう。火矢が城郭の一部を焼いた様子はあるが、やがて消し止められている。しかし最初からこれだけ抵抗がない以上、更に抗戦を続ける気力は削げたのではないかと思う。
「父の蒔いた種が芽を出しているのだと思いますが」
 小清水で多少の工作はしていたらしいからな。まあおおっぴらに「謀叛起こすので味方してください」なんて言えるわけもないので、本当に“種を蒔いた”だけだったのだろうが、それにしても城内でも籠城派と開城派に別れているのかもしれない。そうやって小清水自体が漂うような状態で行われる城攻めは容易いのでは、という空気が早くも流れ始めて古泉は少し眉をひそめていた。

 翌日の行動を打ち合わせるために即日で決められた本営に行ったその帰り道、俺と古泉は長門の待ち伏せを受けた。とは言っても攻撃してきたわけではない。
「これを」
 いつかのように俺に書状を渡してきただけである。長門は正式に軍使としての役をするとも思えないのでこれはやはり春日姫が独断で寄越したものだろう。
「俺宛か?」
「そう」
「この場で渡した以上、俺以外の人間も目にすることになるがいいのか」
 なんせ隣には古泉がいる上に、他にも何人かいるわけだ。俺自身、どちらにしても立場上隠しておくわけにもいかない。
「承知している」
 長門は書状を渡したら立ち去るかと思ったのだが、その場を動かない。相変わらず必要最低限のことすら口にしないが、これはこの場で読んで返事を寄こせということなのか。
 俺は古泉にそのまま書状を手渡したが、古泉は黙って差し戻した。先に読め、ということらしい。松明を持つ者をそばによせ、俺は書状を開いた。

 非常に短い文章で、内容は簡単明瞭。今夜会えるかと書いてあるだけだ。
「逢い引きのお誘いとは、あなたも隅に置けませんね」
 書状を見た古泉がニヤニヤ笑い出す。いや、そういうことじゃないだろ。もしかしたら内応するか降伏するかって話になるかもしれない。
「そういう話でしたら、宛先は父になるはずです。わざわざあなたを名指しして会いたいと言うことは、別に話があるはずです」
 別の話ね。なんの用があるってんだ、いったい。
「長門、お前は返事を持って帰れと言われているのか」
「そう。あなたが了承するなら案内する」
 しかしこれは俺と古泉の一存で決められはしない。結局今出てきた本営に戻り親父殿の判断を仰ぐということになった。おそらく会いに行くことになるだろうという予想は当たり、目付として古泉もそのまま付いてくることになった。いや、さすがに涼宮方に寝返るなんて話はふられないだろうしそのつもりもないのだが、かと言ってこの状況の中、一人で敵方の姫と会うわけにも行くまい。

 長門の案内で陣を離れてしばらく歩いた。いつかの川沿いに出て、そこから北上する道には覚えがある。このまま行くとあの尼寺に出るはずだ。
 想像通り尼寺に到着、確か森さんと呼ばれていた尼僧が古泉と俺(ほかにも何人かいたが)を迎えた。やはり本堂の方には行けないので、入り口近くの僧坊へと案内された。道すがら俺が質問しても森さんは「何も伺っておりません」と言うのみである。本当になんだっていうんだろうね。
 いつもと違うのは相手と会うべき主室に俺が向かい、次室に古泉が控えるということだ。物凄く違和感があるがそれが春日姫の意向だと言うのだから仕方がない。どのみち次室に控えていても話は聞こえるのだし、一緒に入ってもいいと思うのにな。その控えには最初から朝倉もおり、長門もそこに残るらしい。てことは話自体は名目上俺と春日姫二人きりと言うことになる。何だかやりにくさを感じながら、森さんの声かけで俺は春日姫の待つ部屋へと足を入れた。

 暗がりだが、上座にいる春日姫は具足姿らしい。戦時中だと言うことなのか、それともここに来るまでに人に見つかると槍を合わせることになる用心のためか。入り口付近で声がかかるのを待つ俺に、春日姫は声をかけた。
「何してるの、そんなところで。早く座りなさい」
 いや、儀礼上目上の者に対して勝手に座するわけにはいかないだろうが。
「今更そんなこと気にすることないじゃない」
 左右に灯明が置かれているだけの暗い部屋で、俺は春日姫の正面に座った。いったい何の用だというのか。内応や投降であれば古泉の言うとおり親父殿宛に書状を出すだろう。
「久しぶりね」
「そういやそうだな」
 最後に会ったのは三木へ出陣する何ヶ月か前、秀吉が姫路入りした後だった。それだけ経っているってのに、あまり久しぶりだと思わなかったのは何故だろう。
「今日はなんで呼び出したかわかる?」
「わからん」
 わからないから来たとも言える。親父殿や古泉からしたら涼宮の叛旗を報せてきた春日姫の本意を知っておきたいという気持ちがあるだろう。俺もそういう気持ちがないわけではないが、果たしてその説明のために呼び出されたのか。何故かそうではないという気がした。
「実を言うと、用なんてないのよ」
「はあ?」
「むしろあんたがあたしに聞きたいことがあるんじゃないかと思って、わざわざ機会を設けてあげたんだけど」
 いやちょっと待て。おかしいだろうが。そういう話だってやはり正式に古泉家に出すべきであり、俺個人に使いを寄越すなんて普通ならありえん。
「そりゃ聞きたいことはあるが、なんで俺なんだ?」
 聞く俺に対して春日姫はしばらく黙っていた。答えを迷っているような、渋っているような感じか。灯明だけでは暗く、その表情をはっきり読むことは出来ない。
「……内々のことにしておきたかっただけよ」
 それは納得出来る理由ではない。やはり古泉家に使いを出した上で「内々のこと」と述べるのが筋であり、そういわれりゃ古泉家だってそういう対応をする。だいたいこんな時代、世の中「内々のこと」という密かな約束だらけである。三木で蜂起した播州勢もそして涼宮氏も、おそらく毛利から「内々に」何か言われているはずだ。
 しかし春日姫がそう言ったということは、それ以上問うなということだろう。やれやれ面倒だな。
「じゃあせっかくだから聞かせてもらおうか」
 一番聞きたいのはもちろん、あの書状を何故寄越したのかということだ。
 その問いに対して、春日姫はしばらく黙り込んでいたが、やがて答えとはほど遠いことを口にした。
「……八部は良く治まっているわよね」
「? ああ、そうだな」
 統治者としての親父殿は優秀だと言えるだろう。百姓などのことも良く把握しているし、賊が出たと聞けば速やかに対応する。おかげで八部は治安が良いと評判だ。
「菟原もそうだわ。何度行ってもみんないい顔しているもの。有馬は行ったことがないんだけど」
 俺に話しているというよりは独り言でも言っているかのようだ。
「あたしが知る限り、武庫郡が諸事につけ一番悪いわ。治安も、人の顔も」
 その武庫郡は涼宮家のお膝元である。つまりは主家の統治が一番悪いと言っているわけだ。それは分かるのだが、俺の質問の答えにはならない。
 何が言いたいんだ?

「だいたいこんな時代なんだから、武家は慎ましく生きるべきでしょ。いざというときには大金も兵糧も必要になる。それなのにやれ茶会だの酒宴だの、遊興ばかり考えて節制なんてつゆほども考えない。足りなければ民から搾り取れると考えてる。そんな人間が統治している国の末路なんて悲惨でしかないわ」
 一気にまくし立てて一息つく。こいつが父親を嫌っているのではないかと前から感じてはいたが、ここに来てはっきりとわかった。こいつの鬱屈の大きな原因の一つは父親だろう。
「あたしが男だったら、親父の首をはねてそれを手土産に織田方に参じていたところだわ」
 これまた強烈なことを言う。
「お前は織田なら世の中を良く統治すると思ってるのか」
「思ってないわよ」
 おいおい、どういうことだ?
「織田はあっちこっちで馬鹿みたいに『天下に名をあげようと』する連中を掃討するためには必要な人間だわ。封建的な古くさい立場ってのを気にしないのもいいと思う。でも、そういう連中が静まった後は駄目。性格が苛烈過ぎる」
 お前に言われたくない、と言いそうだな。
「どのみち織田の世はそんなに続かないと思うの。臣下は忠誠よりは恐怖心で織田に仕えてるようにも見えるわ。そのうち誰かが我慢できなくなるんじゃないかしら」
 俺は織田信長を直接は知らないが、聞こえてくる評判から判断するとそうかもしれないと思える部分もある。だがそこまで断定できるものかね。
「それでも今誰に付くかといえばやっぱり織田になると思うの。でもこんな話しても仕方ないわね。あたしは女で、親父の首を獲ったところでどうにもならないわ」
 仕方ないってお前が話し出したんだろうが。だいたいまだ俺の質問にまったく答えてないと思うぞ。
「あの書状? どうせそのうち漏れるわよ、あんなぎりぎりの補給路なんて。だったらさっさと報せてしまおうと思っただけ。でももし他から羽柴方に漏れたら、羽柴陣にいるあんたたちの立場が悪くなるでしょ?」
 確かにあの補給路は非常に細いと言え、いずれは発見された可能性が高い。他から漏れたら花熊を根拠としている俺たちの立場が悪くなるだろうということもわかるが、春日姫がそこまで古泉家のことを考えてあの書状を書いたというのが正直言って意外だ。
「違うわよ」
「何が?」
「なんでもないわ」
 意味がわからん。
「しかしそれでお前はどうする気だったんだ。あの書状のせいでこうなることは始めからわかってたんだろう」
 ここに来て命乞いなどしてこないということは、その気はないのだろう。もししてこれば古泉も親父殿も全力で動くし、あの書状がある以上織田も許すだろうに。
「命乞いなんて馬鹿馬鹿しいわよ。だいたいこれで生き延びたって誰かの側室に収まるだけじゃないの。冗談じゃないわ!」
 思わずハッとした。そうだ、確かにそれなりの身分の女が生き延びたところで行く末はしれている。春日姫の言うとおり誰かの側室になるか、運が良ければ正室になるか。これだけ器量も頭もいいなら正室にと望む者が現れるかもしれない。それを逃れるには出家しかない。この時代ではごく当たり前の話でわざわざ言われなくても想像できるはずなのに、俺は今までまったく考えていなかった。こいつが誰かの室に収まるなんて想像し難いというのもあるが……。
 その想像はどういうわけか物凄く嫌な気分にさせられるというのが一番の理由か。しかしなんでこんな嫌な気分になるんだ?
 俺は頭から無理矢理その考えを退けた。そんなこと考えている場合じゃない。
 死ぬ気なのか。あのとき思ったその言葉が入れ替わりに脳裏に浮かんだ。春日姫はその言葉に確証を与えるようなことを言う。
「滅びればいいと思うの」
 思わず絶句した。自分の家を滅びればいい、と言えるのは女だからかもしれないが、それでもこの時代としてはそうとうの覚悟がないと言えることではない。
「古い時代の残り糟みたいなもんだわ、うちは。新しく生まれ変わることができないなら、滅んでしまえばいいと思うのよ。でも……」
 春日姫は睨み付けるように俺を見据えた。
「最期は武家らしく滅びるべきだわ」
 薄い灯りしかない中で、俺を睨む以上の表情を読み取ることはできない。泣きそうなのか強い決意を表しているのか、何故か知りたいと思った。

「もういいわね。話はこれでお終い」
 しばらくの沈黙の後、春日姫は自分で終了宣言をするとさっさと立ち上がった。そのまま上座から下座にいる俺の方へと歩いてくるのは、次室へ通じる襖が俺の後ろにあるからだ。
 何も言えずにいる俺の横を通り過ぎる……と思ったら、そのまますっとかがみ、俺の耳に口を寄せた。髪か小袖に焚いたのか、香の匂いがふわりと漂う。
「ねえ、空ってなんで青いんだと思う? どうして夕暮れ時には赤くなるの?」
 突然そんなことを言われて俺はまた驚いた。この質問は……そうだ、初めて会ったときにした会話だ。あれから二年近く経つのか。良く覚えているもんだな、俺も春日姫も。
「神さまが染め上げでもしたんじゃないのか」
 深く考えたわけじゃないが確かあのときもそんなことを答えたと思う。しかし今頃になって何故こんなことを?
「……あんたって変な奴ね」
「お前に言われたくない」
「でも、そんなこと言う奴はあんたしか居なかったわ」
 お前は誰彼構わずそんなこと質問して回ってるのか、と突っ込もうとしてできなかった。
 頬に何か柔らかいものが触れた。それが何かを認識することがどういうわけかできないのだが。
「最期に会えて良かった」
 そう囁くと、呆然としている俺を置いて部屋を出て行った。そのまま次室も抜けるかと思ったが、立ち止まって古泉に声をかける。
「城内は混乱してるわ。あなたの父上は上手くやったわね」
「……そうですか」
「遠慮も情けも要らないから。あたしに対しても。でも、今日みたいに簡単に行くとは思わないでね」
「承知しました」

 今度こそ本当に出て行く足音と、それを追う長門と朝倉の衣擦れの音(どういうわけか足音はほとんどしなかった)を聞きながら、俺はまだ呆然と座り込んでいるしかできなかった。
 古泉に声をかけられるまで、俺はそのまま座り込んでいたのだった。


 翌朝、俺は正直よく眠れずにボーッとした頭を抱えながら古泉と今日の動きについて打ち合わせていた。何度話に集中しようとしても頭は前日の会見に飛び、古泉を呆れさせたのだが自分でもいまいち制御出来ないでいる。
 昨日の会見、最後のあれはなんだったんだ。「最期に会えて良かった」、春日姫はそう言った。自分の死を覚悟しての発言だということはわかる。だがその前の、あの頬に触れた感覚は……やはり唇が触れたのだと俺の記憶は言っているがしかし納得できん。何故。どうして。
「くそ、俺を混乱させる気なら大成功だ」
 思わずひとりごちながらも、結局その頬の感触と香の匂いばかりが思い出される。畜生、大事な局面だってのに何をやってるんだ。

 その日、本隊も到着したこと、前日の小清水の抗戦が思った以上に貧弱だったことをあわせて一当て寄せてみることになっていた。さて、春日姫が「簡単に行くと思わないでね」と言ったのはどういうことか、それも見極めなければならない。
 後から聞いた話によると、既に包囲していない方から落ちのびた奴らもいるらしい。まだろくな戦闘もしていないというのに、と思う一方で、それが今の小清水の現状かと改めて思わされた。いったい親父殿はどの程度の人間を味方にしているんだろうね。
 寄せ手に俺は参加せず、後方支援と言うことになっている。だいたいが当初の作戦から銃だの弓だの飛び道具を使う人間で構成された部隊のため、白兵戦には向いていないからな。
 まだ夜が明けきらぬ時間から、寄せ手の人数が動き始めた。俺も集中しなければ自分を死体にすることになる、しっかりしろ。

 寄せ手は堀を渡って石垣に取り付いたが、城からの反撃はやはり少ない。防戦を諦めるには早すぎる、いったいどうなってやがるんだと思ったとき、城門が開いた。
 それとともに城から一気に反撃が来る。上から降ってくる銃弾と矢に何人かが落とされたのを見てこちらも慌てて応戦する。とは言え俺のいる方に動きがあるわけではなく、まだ持ち場を守っていろと言われているだけなので見ているのみだ。
 城から出てきた部隊の総指揮を執っているのは女武者────おそらく、春日姫だった。
 この突然出てきた遊撃隊はひとしきり正面の部隊に切り込んだ後、四半刻もしないうちに退却した。その間に、第二波を警戒してこちらの寄せ手も一旦退く。
 俺からはよく見えなかったが、さっきの突出部隊はやたらと激しく動き回っており、こちらにそれなりの損害を与えたのではないかと思う。それにしては……。
「退き鉦が早すぎますね」
 俺のセリフをとるな。だが確かにその通りだ。こういう籠城側の遊撃隊は確かにあっという間に出てきては退くということを繰り返すのだが、それにしても早すぎる。
「それに第二隊が出てくる気配もない」
 古泉は首を傾げていたし、俺も同じだ。どうも小清水城内のことがわからない。確かに混乱しているようだし、士気が低いどころか最初からないんじゃないかと言う感じすら漂っている。まともに戦おうと言う気概が感じられたのはさっきの遊撃隊くらいなもんで、それもどうやら一隊を編成するだけの人数しかないようだ。
「まあ、織田が来れば老若男女問わずに皆殺しだと散々脅したようですからね、父は」
 おいおい、それじゃ逆に遮二無二反撃に出てこられるかもしれないじゃないか。前例があるから反論はできんが。
「どう考えてるんだ?」
「今城を囲んでいるのが僕たち古泉家の手勢のみだということは気がついているでしょう。しかし羽柴の旗を借りていますから、名目上羽柴勢だということも分かっているはずです」
 んなことは俺だってわかる。それでどうして士気が低すぎるってことになるんだ。
「おそらく今の人数のままではあり得ないと思っているんじゃないでしょうか。近々羽柴か織田の軍勢が来る、そうなれば城が落ちるのも遠くはないと。そして羽柴ならともかく、織田の援軍が来てしまえば……」
「城兵の命運もそれまでってことか」
 今の拮抗した人数ならともかく、本当に織田が援軍を派遣してしまえばこの想像は本当になる可能性が高い。だから織田が来る前に城を開けたいと思っている一派がいるってことだろう。もっとも、それでも涼宮家当主の命はないのだが。
「毛利の援軍に期待はしていないのか」
 正直当てにできるもんでもないなと思いながら口にした言葉は、古泉も同感だったらしくあっさり否定した。
「播州を目の当たりに見ていますからね。籠城を主張する強硬派はもちろん頼みにしているでしょうが、冷静に考えている人たちは多分アテになど出来ないと思っていることでしょう」

 結局その日は何度か寄せては退くを繰り返し、春日姫は遊撃隊を指揮しているかと思えば城の塀際で防御隊の指揮に回るという神出鬼没の働きをして俺たちを翻弄した。しかしその行動力と才能は目を見張るものがある。もし春日姫が男だったら、その麾下に入る人間は多く、おそらくこの城攻めはもっと難攻したに違いない。
「あたしが男だったら」
 何度か聞いたその言葉を思い起こしながら、俺は複雑な気持ちを抱えずにはいられなかった。
 他に指揮を執る人間はいないのか?
 こんなことを思ってはいけない。思っている場合ではないのだが────。

 正直言って、春日姫が陣頭指揮を執る城を攻めるのが辛い。