涼宮ハルヒの戦国時代 三章其の四
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 俺の来た搦手とは別方面から、突如として古泉家の指物をつけた一団が駆けてきた。その中に見知った顔を見つけて、西大手から攻め上がってきた連中だと見当をつける。その見知った顔を捕まえて大手門近辺の様子を訊いてみたが、話の限りでは春日姫はこの戦に参加している様子はない。すでに東大手門も開放され、そこから将兵級の人間が落ちないように見張っているのみだということだ。
 と言うことは、やはり春日姫は火のついた天守か館にいると考えていい。

 こんな時代、小火ならともかく激しく燃える火を消す方法なんて建物を壊すくらいしかなく、今はそんな消火活動をしようにも出来る人間などいないわけで、城内を蛇のように這っては次々と建物を飲み込んでいく炎は誰に止められることもなくその勢いを増すばかりだ。普段の俺ならそんな中にわざわざ入っていく何てことはしなかっただろう。
 大将首? 興味ないね、誰か腕に自信がある奴が獲りに行けばいいじゃねえか。
 そう言う俺をよく古泉は苦笑混じりにたしなめた。
「あなたを取り立てて行こうと思っている僕としては、それなりに武功を示して頂かないと困るのですが」
 古泉は嫡男だからいずれ親父殿の後を継ぐ。そのときの側近候補として俺や国木田がいるわけで、その側近がいざ戦のときには何の働きもしていないっていうのは困るってことだ。古泉が認めても一般の兵が認めないだろう。
 しったこっちゃねえ、そう思っていた。
 それなのに今、俺は何かに急かされてその火に飲み込まれそうな天守に駆け込んでいた。俺らしくないとか下手すりゃ自分が死ぬなんてことが頭を掠めたが、それよりも大きな感情に支配され突き動かされている。それが何であるかってことは実は自分にもわかってるんだろ、と無意識に問いかけられるが残念ながらゆっくり考えている時間がない。たぶんわかってるんだ。答え合わせは後からでも出来る。
 天守とそれにつながる館の中も、外と変わらず混乱を極めていた。入り口の辺りにはもはや涼宮方の兵はいない。大半は逃げ、逃げなかった者は伐たれたらしい。

 普通に考えれば城主は総指揮官だから天守にいるだろう。城が見渡せる天守に居住する施設はないだろうが、防御に必要な設備は揃っているはずだ。もし春日姫がまだ防御の指揮を執ろうとしているなら、春日姫も天守にいると思っていい。しかし、涼宮勢の崩れ方を見ていると、しっかりした指揮官などいないようにみえるからには、おそらく春日姫はすでに指揮からはずれている。
 あいつはなんと言ったっけ?
『滅びればいいと思うの』
 長門と朝倉がこの内応を掴んでいなかったとも思えない。春日姫は今日のことをすべて知った上で、あえて反撃せずにいるのではないか。となると、自室にいる可能性が高いな。
 そこで自刃するつもりなのか。
『最期に会えて良かった』
 その言葉を思い出すと身体が震える。勝手なこと言いやがって、ふざけるな。あれで最期のつもりだったのかよ。もう会わないつもりだったのかよ。勝手に俺の生活に入り込んで来て、戦に参加したり町中を引っ張り回したりしたあげくに父親の離反をばらしてはいお終いってか?
 納得できねえ。
 なんだかわからないが、とにかくこのまま終わるなんて出来っこないんだよ。

 このとき俺はすでにこの戦いがどういう目的なのかすら忘れていた。

 城主がいるだろう天守は無視して館の方へと向かう。同じように天守ではなく館に向かう連中は、おそらく姫ではなく城主を捜しているんだろう。もしかしたら館の方にいるかもしれないと思っているに違いない。よく考えたら火のついた天守を抜けるより外を回った方が遠くても安全だったかもしれないが、そんなことを考えている余裕はなかった。
 一応城内の見取り図はあらかじめ見ておいたとはいえ、あいつがどこにいるか正確にわかっている訳ではない。それでも館の造りなんざどこも同じようなもんだろとばかりに奥へと駆けた俺の行く手を、火の手が遮った。
「……うそだろ?」
 俺と同じように館の奥を目指していた連中も足を止める。火の手が及んでいたとはいえ、こっちまではまだ火が回っていなかったはずだ。方角から考えて類焼とは思えない。
「誰かが火をつけたのか?」
 いったい誰が。
 火の勢いが強く、ここから先へは進めそうにない。しかしあいつはこの奥にいるんじゃないのか? この火の向こうで誰にも邪魔されずに死を迎えるつもりなんて思ってるんじゃないだろうな。
 嫌な予感が全身を駆け抜け、

 気がつくと俺は燃えさかる炎の中に飛び込んでいた。

 すぐに後悔したさ。どの程度火が回ってるかも考えずに飛び込んで駆けたはいいが、よく考えたら正確な目的地もわかっていない。こんな火の中を彷徨っていたら危ないなんてもんじゃねえぞ。
 暑い、いや熱い。息苦しい。何やってるんだよ俺、これじゃ何をする前に死にに来たようなもんじゃねえか。襲いかかるのは炎ではなく煙で、苦しくなって息を吸おうとしてもさらに苦しくなっるだけだ。俺はひたすら咳き込んで、思わず膝を折った。

 やべえ、本気で苦しい。せっかくここまで来て、俺はいったい何をやっているんだ?
 煙のせいか苦しさのせいか、かすんでいる視界に誰かが映ったような気がしたが────そこで俺は意識を失った。



「……て」
 誰だ?
「起きて」
 嫌だ、もう疲れた。夕べはあんまり寝ていないんだ、もう少し寝かせてくれ。
「ここもあまりもたない。起きて」
 もたない? 何がもたないんだ? だいたい俺は今何をして……。
「長門?」
 あれ、そういや何で長門がここにいるんだ? 俺はどうしてたんだっけ?
 ここで気を失う前のことを思い出し、俺は飛び起きた。頭がぶつかるのをさけるためにひょいと避けた長門に訊ねる。
「俺を助けてくれたのか?」
 長門は無言で首肯した。そう言えば気を失う直前に誰かの姿を見たような気がしたが、あれは長門だったのか。
 その長門はあちらこちらに血痕を多く付けているが、特に怪我などしていないようだ。この血は長門の物ではないってことか。
 辺りに人の気配はない。まさか、この辺にいる人間を全部片づけたってわけじゃないよな?
「長門が火をつけたのか?」
「違う」
「じゃあ何でここに」
「急に火の気配が接近したから」
 ……様子を見に来たってとこか。
「確かに外から回ってきた火じゃないな。誰かがつけたんだろうが……」
 もうダメだとやけになった涼宮方の兵がつけたんだろうか。
「それより、火の回りが早い。風下ではないが、ここも危険になる」
 おそらく長門は俺を引きずって来たのだろう。小柄な長門が具足をつけた男を引っ張るのは大変なはずだ。それで火事場から距離を取れなかったのだろう。
「大丈夫?」
 煙を吸った後にすぐ動くのは良くないと聞いたことがあるが、だからと言ってここでぐずぐずしている訳にもいかない。
「大丈夫だ、動ける」
 俺は立ち上がってみた。特に目眩などはしない。だったら早くあいつのところに行かなければな。ここで長門と会ったのは運が良かったのか、それとも何かに導かれたのかはわからないが、とにかく探す手間が省けた。
「長門、あいつはどこだ?」
 そう訊く俺を何故か長門は黙って見つめる。そろそろもう一度同じことを訊くべきかと悩み始めた頃になってようやく
「こっち」
 と歩き始めた。俺も後からついて行く。春日姫がどうしているのか訊きたいような訊きたくないような気分だ。
「なあ、朝比奈さんと朝倉はどうしてるんだ?」
「朝比奈みくるは姫とともにいる。朝倉涼子は城から脱出した」
 朝倉は逃げたのか。
「姫はわたしたちに城から脱出するように命じたが、全員拒否した。結果的に朝倉涼子が脱出したのは、わたしが要請したから」
「何を」
「……」
 俺の問いに答えないのは、答えられないということなんだろう。
「お前と朝比奈さんは何故逃げなかった」
「いやだから」
「逃げるのが、か?」
「そう」
 それから僅かに躊躇うような表情を浮かべて、言葉を続けた。
「わたしたちの命運は姫次第」
 正直これには驚いた。確かにこの時代だって追い腹を切るくらい主に命運をかける奴だっているが、たいていは男だし、主命で逃げろと言われて逃げないで残るのは相当の勇気が必要なはずだ。
「何でそこまで?」
 思わずこぼれた疑問に長門は足を止めて、まっすぐに俺を見据えた。
「人の思いはそれぞれ。彼女が好きで彼女とともにありたいと思うことに理由は必要ない。わたしも朝比奈みくるも」
 無表情の中にも強い思いを込めた視線。

「そして、あなたも」

「……確かに、その通りだ」
 一見無表情で感情なんかないようにも見える長門に教えられるとはな。俺はここまで来ておいてなお、自分が納得できる理由を探していた。俺はここで何やっているんだなんて疑問の答えはとっくに出ていたっていうのに。
「その通りだ、長門」
 自分に言い聞かせるように繰り返す。もう言い訳するな。
「“はるひ”のところに連れて行ってくれ」
 長門は止めていた足を再び前に進めた。


 長門の後に付いて歩いていた俺は、廊下を曲がって目に入った光景に思わず息を呑んだ。さっきまでもところどころに動かなくなった人間がいたが、この廊下は異様に多い。指物どころか具足もつけていない奴も多く、もしかしたらこいつらは……。
「涼宮家の足軽」
 長門は俺の気持ちを察したのか、何を訊く前に答えてくれた。それ以上何も言わないが、館の奥に足軽という分際が入ってきたということは、夕べの俺の懸念が当たったということか。館の奥には女性が多くいる。そして長門に付着する多量の血痕。
「お前か」
「わたしと、朝倉涼子」
 ということは、朝倉が落ちたのはついさっきということか。
 こいつらの中に谷口がいなかったことにホッとした。あいつは阿呆で女好きだが、ここまで落ちちゃいないってことが証明されたようで嬉しい。
 って喜んでいる場合じゃねえよ。

 なおも進んで、とある部屋の前でようやく長門は立ち止まった。
「姫」
 主の部屋に入るのに単語だけ発する奴ってのは長門くらいなんじゃないかとかつい関係ないことを考えてるのは実は緊張しているからだ。あいつは俺を見てなんと言うだろうか。怒るってのが一番思いつく反応ではあるが、この状況で笑ってくれるとも思えないしな。
「有希? 遅かったじゃな……」
 長門の声かけも普通じゃないが、まさか城主の姫が自分から襖を開けるとは、何ともこいつらしい。長門の姿を見た春日は明らかに安堵の表情を浮かべたが、次の瞬間俺を見て固まった。
 かくいう俺も言葉が出ない。そうだよな、こいつは確かにお姫様だった。そんなことはよくわかっているつもりだったんだが。
 正装している春日を俺は初めて見た。
 春日が美人なのは最初からわかっていることだったんだが、正装してきちんと化粧を施した姫は何とも描写しがたい色香を漂わせていてそのまま織田信長が築城したという安土城の広間にいてもけして見劣りはしないんじゃないかと思わせる。って俺は安土城なんか見たこともないけどな。豪華絢爛と聞いただけだ。
「……キョン? 何であんたがここにいるの?」
 しばらく意図しないままにらめっこを続けていたが、沈黙を破ったのは春日だった。それまでただ春日を眺めていた俺はその言葉で我に返る。ああそうだよ畜生、みとれてたんだよ、悪いか。
「あ、いや……」
 咄嗟に言葉が出てこない。だいたい何しに来たって言われると言い訳ではなく俺にもわからない。城内で春日が何をしているかもよくわかっていなかったし、とにかく会わなければと思っただけで、何故会わなければならなかったかと言うとだな。
「えーと」
 っていざとなると言葉が出ない。ここまで来て照れだとか自尊心だとかが邪魔をする自分の性格が恨めしい。
「ま、いいわ」
 春日はあっさり言うと、室内に入った。長門も後に続き、俺は一瞬躊躇ったが特に入るなと言われなかったので入ることにする。部屋の上座には太刀と短刀が置かれ、その脇に控えるように座っている朝比奈さんも正装だった。長門のみ小具足姿なのは、それまで廊下で見た光景が答えだ。さすがの長門も打掛姿で立ち回るのは無理だろう。
「……ちょうどいいわ」
「何がだ」
「あんた、あたしたちが何をしようとしてるか解らないなんてことはないでしょ」
 そりゃ解らない訳がない。武家の娘が落城の際にすることなんて決まっている。春日と朝比奈さんが正装なのはつまりそれが理由で、おそらくは長門も着替えるつもりだったのかもしれない。邪魔しちまったかな。
 そう、そんなことは最初から解ってた。解ってたけど、俺はここに来た。
 何をしに? なんて愚問はもういい。
 春日は部屋の奥に行くと、太刀を手に取り俺を睨んだ。

「あんた、そこで最後まで見ていなさい」
 
 最後まで? 最後って、春日は自刃するつもりなんだろ? それを俺に最後まで見ていろっていうのか。春日が死ぬところを黙って見てろって?
 春日は短刀を朝比奈さんに渡す。朝比奈さんが自分で自分の首を切れるとは思えないから、おそらくは形だけ刃をあてた時点で春日が介錯をするつもりなんだろう。その朝比奈さんはさっきから一言もしゃべらず顔は真っ青、目だけはなんとか意志を保っているのがかえって痛々しい。
 だからといって俺に何が言える? 城が落ちて、せめて死だけは自分で迎えようとする奴を止めるのは不粋であり、俺にそんな権利はないはずだ。春日が俺に自分の死を見届けろと言うなら俺が出来るのはそれだけだ。俺も武士の端くれだし、春日は武家の娘、だったら俺の取るべき行動なんて限られている。
 朝比奈さんは手どころか身体をぶるぶる震わせて短刀を握りしめた。辞世を詠む余裕もなさそうで、ただその白く輝く刃を見つめている。
 その朝比奈さんを見つめる春日は一見冷静だが、太刀を握る手が震えていることに気がついた。
 ああ、やっぱりそうか。
 春日は朝比奈さんと長門に逃げろと言ったはずだ。自分の死を厭うことはないかもしれないが、朝比奈さんと長門には生きていて欲しいんだろ。今でもそう思ってるんだろ。

「はるひ!」

 邪魔しちゃいかんと思ってたはずなのに、気がついたら俺は声をかけていた。明らかにびくっとする朝比奈さんと春日。
「……なによ、見てなさいって言ったけど邪魔しろとは言ってないわ」
 俺を睨む目はしかし、少し揺らいでいるようにも見えた。
「やめとけよ、斬りたくないんだろ」
 視線はますます強くなる。そりゃそうだ、春日は朝比奈さんを斬ることが自分の役目だと思っている。いきなり乱入してきたあげくやめろなんて不粋どころじゃないね。
 それでもやっぱり俺は嫌だ。朝比奈さんが斬られるところも、長門と春日が自刃するところも見たくないし聞きたくもない。
「あんたに何が解るの」
「少なくとも朝比奈さんを斬りたくないって思ってることは解るぜ。それに俺も嫌だ」
 そう言うと春日は自分から視線をそらして唇を噛んだ。
「お前が朝比奈さんを斬るところなんか見たくないし、長門が自分の首を切るところも見たくない。それに何より、お前が死ぬところは絶対に見たくない」
 武士の端くれ? そうかもしれないが、今は知るかと言いたい。不粋だとか生き恥だとか、そんな言葉もくそくらえ。俺が一兵卒でたいした身分じゃなくてこいつが由緒正しい武家の姫だとか、そんなこともどうでもいい。ただ死んで欲しくない奴には死んで欲しくない、誰だってそう思うことがあるだろ? 俺にだってあって当然だろ?
「お前が涼宮家の姫として死ぬっていうなら、もう姫なんかやめちまえよ」
「はあ? あんた何言ってんのよ」
 そりゃこの家で生まれたのにやめろと言われて、はいやめます、なんて言えるわけないことは解ってる。それでも。
「そうだ、やめちまえ。だいたいお前は父親をあんまり好きじゃなかっただろ。そいつのために死ぬなんて馬鹿げてるとは思わないのか」
「そりゃ思うわよ。馬鹿馬鹿しい、何であんな奴が大名なんかやってるのかって思うわ。でも、どうしようもないじゃない。あいつはあたしの親父で、あたしは涼宮家の姫で……」
 武家に生まれてその家を捨てるにはどうすりゃいい? 出家するってのも手だが、こいつに剃髪しろって言っても無駄だろうし、俺も何となく嫌だ。世の中そう言う趣味もあるらしいが俺には尼属性はない。そうじゃなくて、もっと別の方法があるだろ? 俺の中の誰かがそう問いかける。もうここまで来たら身分とか気にしてる場合じゃないだろ?
 俺は春日に近づくと、その両肩に手を置いた。
「なに?」
「お前が姫だから死ぬっていうなら、今日からお前は姫でもなんでもない」
「何言ってんのよ、あんた」
 こいつは頭がどうかしたんじゃないかという目で俺を見る春日に、俺は意を決して言った。

「今からお前は俺の嫁だ。だから、死ぬな」

 春日は何か言おうと口を開いたが、また閉じた。その目はただ驚愕に見開かれ、おそらく言葉が出てこないんだろう。そりゃここでいきなり求婚されるなんて思ってるわけないよな、なんせ俺が思ってなかったんだから。
「どうしてもお前が死ぬって言うなら、先に俺を斬れ。悪いが俺はお前が死ぬところなんか見たくないんでね」
 俺の言葉に固まっていた春日はようやく自分を取り戻したらしい。先ほど朝比奈さんを斬るために手にした太刀を見て、再び俺を見た。
「ふうん、いい覚悟じゃないの」
 太刀を持つ手を変え、その刃を俺の首筋にあてがう。その冷たい感触も、何故か嫌ではなかった。どうせこんな生活してればいつか死ぬだろう。だったらここでこいつに斬られて終わるってのも一興だ。あの世で後から来たこいつに礼でも言ってやるさ。古泉にはそのうち会ったときに謝ればいい。あの世ってのが本当にあるのかどうかはわからんがな。
 誰も何も言わない。そういや俺は長門と朝比奈さんの前でやっちまったんだが、今はそんなことは気にならない。
 春日はしばらくそのまま俺を睨み続けていた。まったく、その目の輝きはこんなときでも変わらないんだな、そんなことを考えてていると見る間にその瞳から何かが溢れた。
「はるひ?」
 って、泣いてる? 春日が?
「おい、どうした、何で泣いてるんだ?」
 春日は肩に置いていた俺の手を振り払う。
「……なんで……あんたは……」
 春日の手から太刀が滑り落ちた。
「おい、危ねえぞ」
 不用意に刀を放すなよ、落ちたついでに足を切ることもあるんだぞ、と言いかけた俺は結局その言葉を口に出来なかった。

「……あたしにあんたが斬れるわけないじゃないの!」

 その言葉を聞いた瞬間、俺は春日を抱きしめていたのだから。




「ちょっとキョン、痛いわよ」
「え、あ、すまん」
 当たり前だが俺は具足を付けていて、一応当世風の具足はつまり鉄板である。思わず力一杯その鉄板に押し付けちまったわけで、そりゃ痛いよな。
「バカ」
「だからすまん」
 まだ少し濡れた瞳は不満の色を表した。
「ほんとバカ。あんたこの後どうする気よ」
「この後?」
 後のこと? えーと、俺はそもそも戦しているわけで、敵は涼宮家なわけで、俺がやめろと言ったところで世間的には春日は涼宮家の姫なわけで、そもそも俺はここに来て姫にかまけている場合じゃなかったはずで……。
 古泉から見たら裏切りにも近い行為である。
「何とかなるだろ」
 どうなるかなんてことは実際はわからん。俺自身、このまま逃げればいいのか古泉の陣に戻ればいいのか、それすらわからん。だからといってここまで来て弱音を吐くわけにもいかない。
「いや、何とかする」
 どうすりゃいいのかなんてさっぱりわかんないけどな。

 などとやり合っている俺たちもさすがにここでのんびりしているわけにいかない。気づくと、煙の臭いが漂い始めている。いつの間にか火が近づいてきているようだ。
「はるひ」
「なによ」
「まだ死ぬつもりはあるのか?」
 一瞬視線が合ったかと思うとぷいっと顔をそらして春日は答えた。
「……気が削がれちゃったわよ」
 そうかい、そいつは良かった。
「じゃあさっさと逃げないとまずいな」
「そうね」
 春日はあっさり言うといきなり打掛を脱ぎ捨てた。
「みくるちゃん!」
「へっ? はっはい?」
 朝比奈さんはまだ短刀を握りしめていたが、その顔色は青から赤へと一変していた。何故かなんて聞くまでもないが、あんな青ざめている顔よりは今の方がいいってことで後は考えないことにしよう。
「みくるちゃんもそんなの着てたら動けないわよ! 打掛は脱いで、間着の裾はもう少しあげなさい!」
 言うが早いか朝比奈さんに飛びかかった。さっきまでの態度はどこへやら、この切り替えの早さは何なんだ。
「えっ? わっ ちょ、ちょっと、自分で出来……ふぇえ~」
 無理矢理打掛を剥ぎ取ると、帯を解きにかかったのを見て慌てて回れ右して後ろを向いた視界に長門が入る。長門は相変わらず冷静に様子を見ているだけであった。自分でやっちまった俺が言うのもなんだが、何か思うところはないのか。
「火が近い。早く脱出を」
 ……まあ確かに余計なこと考えてる場合じゃないよな。
「しかしどの門も確実に見張りがいるぞ。他に脱出口はあるのか?」
「ある」
 即答ですか。しかし他に門があるとは俺も聞いていない。古泉は親子で何度も小清水に訪れているはずで、その古泉たちも知らずにいるとはどういうことだ。
「館からの脱出を想定して近くに隠し門を作ってある。城内でも知る人間はわずか」
「なに? 何の話?」
 軽く身支度を終えた春日が話に割って入ってきた。
「脱出する」
 質問の答えになっているのかなっていないのか解らないようなことを口にして、長門は歩き出した。俺たちも後に続く。
 部屋を出るために襖を開けると、すでに煙が充満していた。
「ひぇ?」
 思わず声を上げる朝比奈さんの手を春日が握っている。咄嗟に袖で口を覆いながら、長門を見ると長門は僅かにうなずいた。
「こっち」
 こいつはどこからどう火や煙が来るかが解っているようで、頼りっぱなしだが今はありがたい。
 もう火や煙の中に飛び込むなんて金輪際やらねえぞ、と思いながらその長い廊下を歩いていき、煙が薄くなると長門が駆けだしたのに続いて駆ける……と思ったら朝比奈さんがこけた。
「す、すみませぇん……」
 長門は言うまでもないが、どう考えても女離れしている春日や男である俺と同じように走れるわけありませんよね、朝比奈さん。
「もうみくるちゃん! きりきり走りなさい!」
 無茶言うなよ、春日、と言いたいところだが、朝比奈さんの早さに合わせていると俺たちも危ないような気がする。
「朝比奈さん、おぶりますから背中に乗ってください」
「ええ? でも……」
「いいから早く!」
 朝比奈さんは俺と春日を交互に見て悩んでいたが、おずおずと俺の背に乗った。
「おい、何で睨むんだよ」
「別にっ」
 残念ながら具足越しには何の感触も味わえない……ってそんなこと考えている場合じゃねえ、俺たちは再び駆けだした。


 未明に始まった攻撃は、天守を焼く火が終わりに近いことを告げていた。とっくに日が出ていて辺りは明るい。こりゃこっそり抜け出すのは一苦労かとも思ったが、館の裏側に来るには結構な火の中を通らねばならず、まだ人の気配は少ない。
 春日は焼けた天守を複雑そうな面持ちでチラリと見た。生まれ育った城が焼けることが寂しいのか、それともそこにいただろう父親のことを思ったのか。
「大丈夫か?」
 思わず声をかけた俺を見て、春日は僅かに微笑んだ。
「大丈夫よ」

 隠し門は櫓の下に通してあり、上手く門と解らないように工夫がしてあった。出口は城の北側、出てすぐに木立が茂り、密かに抜け出すにはもってこいだ。
「何よこれ。何でこんなとこに門があるの?」
「お前も知らなかったのかよ」
 城主の家族が知らないってことは、この門の存在を知る人間は本当に僅かなんだろう。
「この門を知る人間は殿と側近の数名のみと思われる」
 何でそんな門を長門が知っているんだ。
「見つけたから」
 そう言った長門の顔は一瞬悲しそうに見えた。気のせいか? この門を見つけたからって悲しむ必要なんかないはずだ。
 城から出てもすぐに森が広がっていて、どっちに行けばいいのかも解らないが、少し進むと獣道のような道があることに気がついた。
「これはどこに通じてるの?」
 春日の問いに長門は首を振る。長門にも解らないってことか。
「とにかくこれを進んでみるしかないわね」
 そう言って俺をじろりと睨み、
「もうみくるちゃんを下ろしてもいいんじゃない?」
「わかってる」
 お前、もしかして妬いてるのか?
「そんなんじゃないわよバカ!」
 そう言うことにしておくか。

 
 その道がどこに続いているのかは、土地勘のある長門と春日がすぐに気がついた。朝比奈さんも土地勘があるはずだ、なんて今更言わないことにする。
「このまま行くと、森さんのところに行けるわよね」
「そう」
「えっ? そうなんですかあ?」
 森さんっていつかの尼寺か。
「そうよ。たぶん寺の裏手辺りに出るわ」
「そういやあの人は何で出家したんだ?」
「知らないわ。突然だったもの。それまであたしの侍女だったんだけど」
 そういや森さんもそんなことを言っていたな。
「お前に仕えてたのに、お前が理由知らないのか」
「何も言わなかったし、思うところがあるのに問いつめるのもなんかやらしいじゃない」
 確かにそうだが、なんだか変だ。夫がいて亡くなったとか、何らかの形で命乞いをしなければならなかったとか、よっぽど仏の教えにのめり込んだくらいしか出家理由なんて思いつかない。しかしどの理由でも春日が知らない訳はなく、突然何も言わずに剃髪なんて普通なら考えられない。
 なんて今の状況とは関係ないことに頭を使っても仕方がない、とこのとき思っていた。
 まさかこの森さんの出家理由が、間接的に俺を助けることになるなんて思いもしなかったからな。


 ここまで落ち武者狩りどころか人っ子一人会わないなんて出来過ぎている。
「こちら側に門があることを人は知らない。この方面に落ちる人間がいるとは想像しないはず」
 なるほどな。長門が言うと説得力があるな。
「見えてきたわ」
 いつか来た川沿いとは逆方向なので、いまいち前に来たって実感はわかないが、この辺りをよく知るはずの春日が言うのだから間違いないのだろう。
 こちら側は山しかないと思えるはずなんだが、何故か門が作られている。その門を、春日は遠慮なくドンドンと叩いた。
「森さーん! 開けてー!」
 なおも叩く春日を俺が止めた。一応お前も“城から落ちた姫”なんだから、わざわざ目立つことしてるんじゃねえ。
「何よ、もう姫じゃないって言ったのはあんたじゃないの」
「それを認めてるのはここにいる人間だけだろうが」
 俺の嫁なんて言ったって誰に認められたわけでもない、危険性の意味では結局こいつは未だ涼宮家の姫だ。こんなところで見つかったらどうなるかわかったもんじゃない。
「もう、ややこしいわね。やめるって言ったらもうそれでいいじゃないの」
 世の中そんな単純じゃねえんだよ。
 しかし、春日がこれだけ騒いでいるのに中から人が出てくる気配がない。この寺が涼宮家縁なのはおそらくこの辺の人間は知っているはずで、何かあったのか? 嫌な予感に襲われる。
「様子を見てくる」
 長門が斥候を申し出た。本当にお前には頼りっぱなしだな。
「いい」
 と一言、ひらりと塀の上に飛び乗ると、そのまま中に消えた。中で何が起こっているのかわからないし、どんな危険があるのかわからない。
「……有希なら大丈夫よね」
 俺と同じことを春日も思ったらしい。少し不安の色が滲んでいる。
「ああ、あいつなら大丈夫だ」
 そう言って春日の手を握ると、俺の手を握りかえした。
「あ、あのぅ……」
 って朝比奈さんがいたんだっけ! いや、すみません、忘れていたわけじゃないんですよ、ただこの状況じゃ長門が心配なだけですから!
「いいんですよ、もう」
 ちょっと拗ねた顔をしてぷいっと横を向く姿も大変愛らしいです、そのまま絵姿に閉じこめたいくらいですよ、って春日痛い! つねるな!
「……」
 これ以上ないくらい阿呆な場面で長門が戻ってきた。何かもう朝比奈さんと長門には恥ずかしいところばかり見られているよな。
 長門は塀ではなく門を開いて出てきた、と言うことは中は危険ではないってことか。いったいどうなってるんだ?
「来て」
 今日は俺たちを先導するのが役割らしい長門は、そう言って俺たちを中に招き入れた。

「有希、森さんは? どうして出てこないの?」
「出てこれないから」
 長門の答えは端的なんだがわかりにくいんだよ。どうして出てこれないかって聞きたいんだが。
「見ればわかる」
 その答えに再び嫌な予感がわいてくる。まさか、もう動かぬ人となった、なんてことはないよな?
 なんて不安を抱えながら本堂の裏手へと歩く……ってちょっと待て!
「ここは男子禁制なんじゃないのか!?」
「問題ない」
「何がだよ!」
「今更そんなこと気にしている場合じゃないでしょ!」
 それはそうなんだが、やっぱり何となく気が引けるというか……。
「問題ない。男子禁制は建前」
 建前? どういうことだ?
 もう何を聞いても見ればわかると言われるような気がして質問はやめておいた。百聞は一見に如かずって言葉の意味は、この直後実感することになった。

「……朝倉?」
 本堂を回って裏手に出る。思ったより広い庭に、いくつかの建物が建っており、その庭に刀を抜き身で構えているのは朝倉だった。数間離れて対峙する森さんは何も持っておらず、つまり丸腰だ。しかしいるのは森さんと朝倉だけではない。
 二人の間に男が三人、女が一人。えーと、どういうことだ?
 と疑問に思っている俺の隣で春日が叫んだ。

「こ……こんの、くそ親父!!」

 くそとか言うな、じゃなくて何だって!? 親父?
 春日の親父ってことは、この人……のうちの一人は。
 俺だって一応涼宮家の陪臣、城に入ることもゆるされないが、見たことがないわけではない。よく見てみると、確かに春日の父親で小清水城主、涼宮輝職その人……だよな?
 何でこんなところに。天守にいたんじゃないのか?
 春日は父親の元に駆け寄ると、いきなり顔面に一発食らわした。ぶっ倒れる城主。
「おい!」
 思わず止めようとした俺の袖を誰かがつまむ。振り返ると長門だった。
「姫の好きなように」
 どういうことだ?
「殿が影を天守に置いて逃げるのではないかと懸念していたし、実際に逃げたことも確認した」
 そのときにあの隠し門を見つけたのか。
「そう。逃げる際、火を放つよう命令したのも殿」
 長門はまた少し悲しそうな目をした。
「姫が知れば辛い」
 春日はあそこで死ぬ気だったわけで、父親が逃げたなんて聞かされれば死んでも死にきれないだろう。それで長門は黙っていたのか。
「朝倉涼子に後を追うように依頼した。どこかで切腹するなら見届けるようにと」
 そして切腹しないなら、朝倉がとどめを刺すってことなんだろう。
 親子喧嘩はまだ続いている。というより一方的に春日が罵声を浴びせているだけで、父親は何かもごもごと口の中で反論するだけだ。止めようとしている傍らの女性はどうやら母親らしいが、俺は初めて会った。

「あんたには潮時ってもんがわからないわけ!?」
 なおも父親の胸ぐらを掴み、涙声で叫び続ける春日の肩に手を置いた。もうやめとけ、それ以上言ってもお前が辛いだけだろ。
「う、うるさい、あんたに何が……」
 ああすまん、俺にはわからん。俺は身分なんかないような家の出で、偉い人の責任とかそう言うこともわからん。だけどな。
「お前が辛そうだってことくらいはわかるんだよ」
 俺の言葉に、春日は不満そうな顔をしたまま顔を背けた。
「……朝倉」
「なあに?」
「あんたが逃げたのは親父の後を追うためだったの」
「ばれちゃったわね。そうよ、逃げたままにしておけないでしょ」
 長門のことを言わないのは朝倉なりの配慮なのかもしれない。
「有希も知ってたのね」
 って、ばればれかよ。
「ごめんなさい」
「いいわ、結果論だけど、かえって都合がいいじゃないの」
 どういうことだ?
 春日は俺を睨み付けて言った。
「あんたまだわかんないの? どうせこれからのことを考えてなかったんでしょうが」
 確かにそうだが……。春日はそこでそれまでの表情を一変させた。その瞳に晴れた夜空を閉じこめたような輝きが戻る。
「だったら親父を手土産に持たせてあげるわよ! 陣に持って帰ればあんた勲功一等間違いなしよ!」

 なんですと!?
 その場にいた全員、いや、長門は除くが、口をあんぐり開けて驚いていたのは言うまでもない。


 なんだかその場で騒ぎがあったような気がするが、長門や朝倉だけではなく森さんも城主ではなく姫の味方らしく、その場でお縄となった城主一行であった。いや、春日は母親だけはさすがに縛れなかったらしいが、だからといって今更話すことはないという態度を崩さなかった。
「なあ、本当にいいのか。曲がりなりにも父親だろ」
 陣に連れて帰ればおそらく命はない。切腹どころか磔の後、首を検めるために三木の羽柴陣へと送られるだろう。春日にそれがわからない訳はない。
「昔からよくあることだわ。北条登子(足利尊氏の妻)の例もあるでしょ」
 確かにそうだが、それでお前は辛くないのか。そう訊く俺を正面から見つめて春日は訊き返す。
「あたしはあんたの何?」
「嫁、だな」
「だったら余計なことは言わないで」
 険しい顔をしたまま俺を見つめる春日に何も言えなくなった。辛い選択をさせてしまったのかもしれない。こいつに死んで欲しくないなんて俺のわがままでしかなかったんだから。
 だからといって今から手放せと言われても嫌だ。俺も腹をくくるしかないのだろう。
「悪かった」
 結局謝るしか出来ないんだけどな。


 俺はそんなに頭がいいわけではないが、この尼寺の役割はすでにわかったような気がする。隠し門からここに通じる道ではないような道、そして寺の裏門。表向きは尼寺だが、実際は涼宮家の砦の一種だ。裏手にある建物は中を見たわけではないが、ある程度の兵糧や武器もあるのではないかと思う。尼寺ならばそう簡単に男が足を踏み入れず、露見するおそれが少ない。そして森さんは形の上では“出家”だが、実際はこの砦の管理を任されていたというわけだ。
 だから城主はここに落ちて来た。つれてきた側近は僅かだが、おそらくは譜代の誰かの城まで落ちるつもりだったのかもしれない。
 ところが俺たちが来てしまった。城主の命運もつきてしまったというわけだ。
 娘の手で。



 それからのことはあまり語りたくはない。森さんが古泉の陣に使いを走らせてくれ、古泉自ら確認に来た。春日を見ていつもの笑顔が五割り増しになってやがる、畜生。
「しかしこれは、大手柄ですね。城内にいる“影”を追っている間に本物に逃げられたとあっては世間のいい笑いものですから」
「だから俺の手柄じゃねーよ」
「でも、我々の中で実際にここで敵の大将を発見したのはあなたしかいません。何か欲しいものがあれば今のうちに考えておいてください」
 そうは言うが、この戦で古泉が織田からもらえる褒賞など微々たるものだろう。元々涼宮家は織田の家臣でもなかったし、直接的には羽柴の手柄ってことになる。褒賞は織田から羽柴、そして古泉家へと渡され、最終的に古泉家臣に分配されるわけだから、たいしたものを期待するのも悪い。しかしここで欲しいものは言っておかなきゃならんだろうな。言いたくないが仕方がない。
「別にものはいらんが、それでも欲しいものはある」
「不思議なことをおっしゃいますね。伺いましょう」
「ああ、それさえ手に入れば褒賞も特進も何も要らない」

 俺が何が欲しいと言って古泉ななんと答えたか、それは禁則事項ってことにしておいてくれ。
 ん? 禁則事項ってなんだっけ? まあいいか。


 古泉はいったん帰陣すると言い、俺は寺に籠めた捕虜の管理という名目で残ることにした。未明に戦を始めたって言うのにすでに日は山の端に触れており、空は赤と紺が混じり合う不思議な色に染まっていた。
 古泉やその他の連中と話したり打ち合わせたりしていたので、春日とは全然話していない。
「良かったら湯をお使いください」
 森さんが風呂の支度をしてくれた。そういやこの人は役割からすると城主の味方なんだろうが、何であっさり春日についたんだ?
「勘違いなさらないでください。私がここの守備につくことを了承したのも姫様のためでしたから」
 最初からどっちの味方かははっきりしていたってことか。どうも小清水での人望は春日の方があるようで、今更だが女であることがもったいないよな。だからといって男になって欲しいなんてこれっぽっちも思わんが。
 陣にいるとたらいで行水する程度しかできないので、きちんと風呂に入れたのは正直嬉しかった。そこ、誰かが入ってきたとかそんなことは全くないからな。変な想像するなよ。


 風呂上がりにいつぞやの僧坊の縁に座ってぼーっとしていると、春日がどこからともなく現れた。お前、いつからそこにいたんだ。
「さっき」
「そうか」
「隣、いい?」
 今更変な遠慮するなよ、かえって気持ち悪い。
 春日は黙って隣に座ると、俺と同じようにすっかり暗くなった空を眺めた。特に何も話さないのだが、なんだか隣に春日がいるってだけで照れくさい。何を今更と思うかもしれないが、いろいろカタがついて冷静に考える余裕が出来たというか、だいたいいきなり「俺の嫁」とか言って何をやっているんだろうね、俺は。
 春日を見ずに空を眺めていた俺の肩に突然重みが加わる。春日が俺の肩に顔をうずめたのがわかったが、あえて見ないまま、反対側の手で軽く頭をなでた。
「……今日はいろんなことがありすぎたわ」
「そうだな」
「もう頭の中もぐちゃぐちゃでわけわかんないわよ」
「すまん」
「何で謝るのよ」
「そりゃ責任を感じているからだろ」
 春日は俺の肩から顔を上げると、俺の顔を掴んでぐいっと自分の方に向ける。
「……あたしが抵抗したことで、古泉の人間にも多少は犠牲が出たはずだわ」
 そりゃ多くはないとはいえ出たさ。戦をしている以上犠牲はつきものだ。
「あたしはそれを謝る気はない。だから、あんたも謝らないで」
「……わかった、すまん」
「また謝ってる」
「ああ、すま……いや、なんて言ったらいいんだ?」
 思わずまた謝りそうになった俺の顔を春日はつねった。痛いって。
「責任感じてるなら一生大事にする、くらい言いなさいよ」
「……一生大事にする」
「言われてからじゃ遅い」
「じゃ、謝るしかないな」
「……バカ」
 言いながらハルヒは俺に唇を寄せた。

 いつの間にか、空には大きな月が浮かんでいた。