素直になるために、必要だった 前編
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前編 後編
ひだまり様からリクを頂きました。ってなわけでお題は
 ハルヒの記憶喪失
出来は、悪い。

 なんてことない日だった。つまり、エセスマイルを貼り付けた古泉はアナログなボードゲームで黒星を増やし続けて、今日もメイド服を完璧に身につけた朝比奈さんは日々向上するお茶入れの技術をその天使の微笑みとともに披露し、読書マシンと化した長門は俺がもっとも心に安らぎを感じる無表情でハルヒあたりに持たせたらいい武器になりそうな分厚い本を定期的にめくっていた、というわけだ。
 一体SOS団の存在意義ってなんだっけと思いたくなるような光景もすっかり当たり前となっており、そうそう日常を脅かすような大事件に関わり続けている訳でもないさ、と俺は思っていた。

「涼宮さん、遅いですねえ」
 お茶のお代わりを俺の前に置きながら、朝比奈さんが花びらのような吐息とともにつぶやきを漏らした。ご心配なく、あいつは掃除当番なんだから遅くて当たり前です。たまたま同じ班になった谷口あたりをこき使って楽しんでいることでしょう。それより朝比奈さんもこのつかの間の平穏を楽しんだ方がより建設的なことは間違いない。
 その平穏を破る人物は言うまでもなくハルヒなわけで、おそらくもう少ししたら部室のドアが壊れんばかりの勢いで開かれるのだろう。

 実際ドアを開いた人物がこの平穏を破ったのは確かなのだが、それは予想に反してハルヒではなかった。

 ノックとともに無遠慮にドアが開かれ、長門を除いた全員の視線を浴びながら登場したのはお隣さん、コンピ研部長氏だった。
 なんだ? また勝負を申し込みに来たんじゃないだろうな。今度賭けるとしたら長門になりそうだ、と思ったのはどうやら勘違いだったらしい。以前は確かこちらからドアを開けるまで待っていたはずなんだが、今回はそれどころじゃないのを隠すつもりもない表情でノブを握ったまま早口で叫んだのだった。

「た、大変だ! 団長さんが、か、階段の下で倒れてる!」

 その数秒後には、全員が階段へと向かって駆けだしていた。


 その後古泉が『機関』経由で救急車を手配し、ハルヒは見覚えのある病院へと搬送された。
 その間俺はただ見ているだけで、何も出来なかったのが情けない。


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「ごめんなさい」
 ハルヒが収容された病院の廊下で見た目はほとんど変わらないが、明らかに悄然とした雰囲気でまず謝ったのは長門だった。
「学校内に不審な兆候は見あたらなかった。彼女が部室に現れるまでのあいだに障害はないと判断した」
 つまり、その間ハルヒから意識を遠ざけてしまっていたらしい。というか、むしろ普段は常にそばにいなくてもハルヒのことを見てたってことか。
 だからと言って長門に責任なんかこれっぽっちもないと思うぞ。
「我々の方も外部ばかり気にして肝心の涼宮さんの動向から目をそらしてしまっていたようです」
 笑顔の消えた古泉もどういう訳か責任を感じているようだ。しかし副団長としても『機関』としても何でも出来る訳じゃないだろう。むしろ学校内で常に誰かがぴったりはり付いていたらハルヒが不審に思うんじゃねえか。『機関』だって限度があるだろうよ。
「わ、わたし何も知らなくて……」
 着替える余裕もなく未だにメイド服の朝比奈さんも今にも泣き出しそうな表情を浮かべていた。朝比奈さんが何も知らないのはそうさせられているからで、あなたも何も悪くありませんよ、とは言えないのがもどかしい。

 そう、どう考えても誰も、まだ登場していない誰かすらの責任ではないはずだ。
 ハルヒはほぼ間違いなく勝手に階段で足を滑らせて転倒しただけなのだから。

 そのハルヒは医者よりも信頼のおける長門の診断によると、軽い打撲と脳震盪ってとこらしい。
「身体構造的には5日後に完治。ただし、脳機能的な問題が残存する」
「どういうことだ?」
 長門は1mmほど表情を歪ませた。それが何となく苛立っているように見えるのは俺だけだろうが。
「記憶回路の一部が軽度の損傷を受けている。おそらく、彼女は記憶を引き出すことが不可能」
「記憶を引き出すことが出来ない?」
 それって、一般的に言う記憶喪失ってやつか?
「そう。正確には全生活史健忘と言われる状態」
 あり得ないような連中と日常を過ごす俺でも、その言葉はショックだ。ハルヒが俺たちを忘れるなんてことがあるか? SOS団を忘れたって? ハルヒが?
「何とかならないのか」
「彼女の情報操作能力がどのような物かわかっていない以上、脳の機能に改変を加えることは最小限に抑えるのが情報統合思念体の意向」
 長門が苛立っているように見えたのは気のせいではなかったのだろう。長門は何とか出来るなら何とかしたいと思っているんだ。いくら長門がその親玉に作られたインターフェースだとしても。
 俺は何も言えずに黙り込むしかなかった。

「とにかく、長門さんの診断ではじきに意識が戻るはずです。しばらくは様子を見るしかないでしょう」
 本当に珍しく焦りを浮かべた表情で俺と長門が黙った後を引き受けたのは古泉だった。しかし思い出したように笑顔をとってつける。
「楽観出来る部分があるとすれば、涼宮さん自身はきっと記憶が戻って欲しいと願うでしょう。そうすれば間違いなく記憶は戻るはずです」
「出来る部分ってことは、出来ない部分もあるってことか?」
「ええ、残念ながら」
 目を覚ましたら自分の状態に気づき、すぐさまその謎の能力が発動して大団円って訳にはいかないのか。
「問題は全生活史健忘ということです。本当にすべてを忘れてしまえば何が何でも取り戻したいと思うでしょう。しかし、生活史の健忘は逆に社会的な事柄や常識は記憶に残っています。その状態で自分が記憶喪失だと気づけば、不安ながらもすぐには治らないと思いこむかもしれません」
 不安な感情より常識論が勝つなんてことがあるのかね。しかもハルヒの常識だ。
「あるいは識閾下でしばらく記憶喪失の状態を続けたいと望むようなことがあるかもしれません」
 いくらハルヒでもそりゃないだろ。あいつは今の日常を楽しんでたんだから、それを失いたいなんて思ってないはずだ。
「僕もそう思いますよ。だからどちらかと言うと楽観論を支持したいのですが、最悪の場合も考えておかないといけませんからね」
 俺も楽観したいところだが、明らかな不安が胸に残る。朝比奈さんも同様らしく、小さく溜息を漏らしながら呟いた。
「涼宮さん、わたしたちのこと思い出してくれるでしょうか」


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 長門の予測通りしばらくしてハルヒは気がついたらしいが、当然のごとく医師の診断などが先に行われ、俺がハルヒに会えたのはそれから30分ほど後のことだった。
「誰? あんた達」
 ……予想していたとは言えキツイ。やはり俺たちはハルヒにとって全く知らない人間になってしまった。
 ハルヒは怒るでもなくごく不思議そうな表情を浮かべて俺たちの顔を順番に眺め、おそらく最後に俺と目が合うと何故かそこで視線を固定して睨み始めた。視線をはずすのもどうかと思いそのまま見つめ返していたが、だんだん気まずくなってきた頃にようやくハルヒは口を開く。
「あたし、あんたとどこかで会ったことがある? ずっと前に」
 なるほど、確かに記憶喪失だ。どこかでずっと前じゃないだろ、毎日教室でも部室でも顔を合わせているだろうが、と言っても今のコイツにはわからないんだな。しかし記憶をなくしている割には聞き覚えのある台詞を言うのは、中身はやはりハルヒだということか。
「ずっと前どころか今日も会ってたぜ。俺はクラスメイトだし──」
 最初に話しかけられた以上、その後ハルヒと話す役目も俺になっちまったようだ。
「──部活も同じだからな。こいつらもその部活の仲間だよ」
 SOS団という単語はあえて出さなかった。出してもわからないんだ、今のハルヒは。
 何となくその事実は胸のどこかにひっかき傷みたいな痛みを残すのだが、だからといってハルヒが悪いんでもないので飲み込んでおくしかない。
「部活の仲間……部活って学校の? あたし、学校に行ってるんだ」
 一つずつの事象を確認するように、ハルヒはゆっくりと言った。まだいろいろ混乱しているだろうから事実の認識に多少時間がかかるかもしれない、と医者に言われてもいる。俺はそのままハルヒが納得したような表情をするまで黙っていた。
 ハルヒはもう一度俺たちを見回すと、今度は朝比奈さんあたりで視線を固定した。
「みんな制服……うん、制服よね、着てるのに、何でメイドがいるの? メイドって、あれ? 学校にはいないわよね?」
「えっ? あっ、えーとこれは……」
 焦って上手く説明出来ないでいる朝比奈さんを不思議そうに眺めるハルヒを見て俺は溜息を吐いた。
 こんなこと言ってる場合じゃないんだが言わせてくれ。
 お前が言うな。


 結局その後、宇宙人未来人超能力者はそれぞれの組織となにやら会合だか打ち合わせだか知らんがあるらしく、後の説明を俺に押しつけて帰ってしまった。朝比奈さんは着替えたいと言うのもあったようだ。
「何か聞きたいことあるか」
「そりゃたくさんあるわよ。部活って何? あんたたちはあたしとどういう関係? 何でメイドまでいるの? めちゃくちゃ可愛いじゃないの、あの子をメイドにした奴に勲章をあげてもいいくらいよ!」
 無意識でも自画自賛なのか、お前は。
「そう一度に聞くなよ」
「聞けと言ったのはあんたでしょ」
 そうなんだがハルヒの好奇心を満たすには一つずつ答えてたらキリがなさそうだ。
「とにかくお前が北高でやってきたことを話してやるよ」

 こうして俺はSOS団の結成からのエピソードを、もちろん宇宙的未来的あるいは超能力的な話は一切交えずに話してやった。聞いているハルヒはときどき「あたしそんなことまでやったの? 凄いわ!」とか「あの子、朝比奈さん? そう、みくるちゃんって呼んでたの。うん、メイド服を着せたのはあたしだと思ってたのよね。さすがあたしだわ!」なんてどうしたらそこまで自分を持ち上げられるのかと聞きたくなるような相づちにしちゃ長い文句を挟んでいた。その瞳は話が進むほどに輝いていき、最後には、
「うん、SOS団団長涼宮ハルヒ! 凄いわね、自分でもただ者じゃないと思ってたのよ!」
 と握り拳を作って叫んでいた。
 やれやれ。
 記憶がなくなろうが何処まで行ってもハルヒはハルヒだな。

 そして、その事実に安心している俺がいた。
 結局ハルヒは自分の能力で記憶を戻すことをしていないっていうのに、我ながら暢気なもんだ。


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 それから数日後、特に日常生活に問題はないと判断されたハルヒは学校にも来るようになった。普段通りの生活をした方が記憶が戻るのも早いかもしれないとの判断があったようだ。
 担任岡部が事前に事情を説明していたのでクラスに混乱はないだろう。だいたいハルヒはクラスメイトとほとんど話さなかったのだから、たいした影響なんてあるわけがないのだ。

 最初のうちこそ戸惑ったような表情を見せていたハルヒだが、元々の性格と行動力が消えた訳ではないのはこの数日間、毎日見舞いに行っていたのでわかっていた。しかし、ハルヒが登校して早々に元のハルヒとずいぶん変わっていることを実感せざるを得なかった。
 なんたって、初日は母親に付き添われて遅めに登校したハルヒが、
「おっはよー!」
 と大音響で挨拶して入ってきたのだから。
 おそらく北高入学以来、ハルヒが教室に挨拶をしながら入ってくるなんてことは初めてであり、1年の時からほとんど変わっていないクラスの連中はみんな呆気にとられてハルヒを眺めていた。
 それからも誰彼構わずに「ごめーん、覚えてないんだけどさー」などと言いながら話しかけるハルヒに激しく動揺しながらも何とか答えるクラスメイトと挨拶を交わしながら、俺の方へとやってきた。
「キョン、おはよー! あんた同じクラスだったんだ」
「そう説明しただろうが」
「そうだっけ」
「忘れてんのかよ」
 その言葉に少しムッとしたらしいハルヒは俺をじろりと睨むと、そのまま視線を落として溜息を吐きながら座席についた。
「ここ数日で一気に説明されたって全部覚えきれるわけないじゃない。ただでさえいろいろ混乱してるんだから」
 言われてみればそれもそうだ。そいつは悪かったな。
「わかればいいけどさ」
 まだ不機嫌そうな顔をしながらも、とりあえずは許してくれたらしい。
 あれ? そう言えば、こいつは迷うことなく自分の席まで来たが、誰かが教えたのか?
「え? 座席?」
 俺の問いかけにきょとんとした顔をしてしばらく考えていたが、やがて独り言のような口調で言うには、
「そう言えば知らないわ。誰かに聞けばいいって思ってたけど、なんだか自然にこの席でいいんだって思ってた……」
 なるほど、身体が自然に覚えてたのか?
 そう言う俺にホッとしたような笑顔を向けると、ハルヒはまた呟いた。
「そうね、完全に忘れた訳じゃないみたい」


 ハルヒが忘れいているのは自分に関することだけで、授業内容はしっかり記憶にあるらしい。教師も遠慮してかハルヒに当てることは無かったが、代わりに何故か今日は集中砲火を浴びた俺であった。くそ、わかんねえもんはわかんねえんだよ。
「何よ、あんたが記憶喪失なんじゃないの?」
 喪失したと言うよりは最初から記憶していないってほうが正しいな。
「あんたさっきから寝てばっかりだもんね」
 俺が寝てようが自分が話したければ容赦なくシャーペンで突いてくるのも相変わらずで、話していると記憶喪失だったなんてことを忘れそうになる。しかし休み時間は積極的にクラスメイトに話しかけているのを見ると、おそらくこのクラスでの自分を取り戻そうとしているに違いない。
 最初は戸惑っていた連中も、ハルヒの持ち前の明るさが功を奏したのかそれとも記憶喪失という症状に同情したのか、女子を中心にあっさりハルヒを受け入れたのだった。
 まさか“クラスメイトと楽しく語らうハルヒ”なんてものにお目にかかれるとはね。怪我の功名と言うべきか?

 その日の放課後、HRが終わった瞬間にハルヒは俺のネクタイを掴んで大声でまくし立てた。
「放課後部活やるんでしょ!? 早く連れて行きなさい!」
「言われんでも連れて行くからネクタイを離せ! この状態でどうやって案内しろっていうんだ!」
 相変わらず俺のネクタイを掴んで引きずっていく。お前はほんとに記憶がないのか? このままいつかの再現みたいに部室まで連れて行かれそうな気がするんだが。
「こっちでいいの?」
 ようやくネクタイを離して隣を歩き始めたハルヒは、今日見た中で一番の輝きをその瞳に宿らせていた。

 部室棟に到着、文芸部室の見える廊下に出るとすぐに「SOS団」と書かれた紙を発見したハルヒはまたもや俺のネクタイを掴んで走り出した。おい、ここまで来て急いだって到着時刻はほとんど変わらんぞ。
 そのままどっちが案内してるんだかわからない状態で部室まで到着するとノックもせずにドアを壊れんばかりの勢いで開き、
「やっほー! 団長様の復活よ!」
 と叫んだときには、やっぱりハルヒは全部思い出したんじゃないかと疑ってしまったほどだ。
 疑ったのは俺だけではなかったらしく、古泉が意味ありげなアイコンタクトを取ってきた。この状況で聞きたいことが解らないほど察しは悪くないつもりなので、俺は軽く首を横に振って答える。軽く息を吐いた副団長は、しかし落胆した様子は見せなかった。
「やはり団長あってのSOS団ですからね。涼宮さんの復活を心待ちにしておりました」
 相変わらずのお追従を述べるあたりは卒がない。
 ハルヒは最初こそきょろきょろと室内を見回していたが、すぐに「団長」と書かれた三角錐を目にすると、
「ここがあたしの席ね!」
 と満足げに頷くとその席に腰を落ち着けた。そのまましばらく机に突っ伏していたが、やがて誰に言うともなく呟いた。
「ここが────部室かあ。SOS団ね……なんか、この部屋にいると凄く安心する……」

 そんなハルヒを、宇宙人と未来人と超能力者が、それぞれの思いを込めて見つめていた。