素直になるために、必要だった 後編
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 ハルヒはしばらくそうやって机に伏したまま目を閉じていた。ここにいると安心する、その言葉に偽りはないだろう。そもそもハルヒにとって学校に通う意味のほとんどはこの部室にあったと言っていい。 先ほど部室に連れて行けと俺のネクタイを掴んだのも、おそらく心のどこかでそれを覚えていたからに違いない。

 今朝の座席の件もそうだが、何もかもを忘れたわけじゃない。
 ここにいるのは、やっぱり涼宮ハルヒなんだ。

「あの、お茶入りました」
 朝比奈さんもそんなハルヒに何かを感じたのか、天使の微笑みを更に柔らかな表情に変化させてお茶を給仕してくれる。そこでハルヒはようやく顔を上げると、朝比奈さんを凝視し始めた。記憶を失って初めてあったときも不思議がっていたが、やっぱりメイド服がめずらしいのか?
「えーと、みくるちゃん?」
「は、はあい!?」
 声だけかけて更に見つめていたハルヒは、突然椅子を蹴って立ち上がると朝比奈さんに抱きついた。
「ひえええええ!?」
「やっぱりめちゃくちゃ可愛いわ! このメイド服着せたのあたしなんですってね! さすがあたし!」
 いや、朝比奈さんが可愛いのは別にお前の手柄じゃないだろうが。
「しかもなんでこんなに胸おっきいの? ちょっと触らせなさい! あ、こら、逃げるな!」
「や、やめてええええええ!」
 なんだかもの凄く見慣れた光景になってきた。そして、こうなっても古泉が微笑みをたたえたまま手を出さないも、長門が本から顔を上げないのも……いや、長門は本から顔を上げてその光景を眺めていた。とにかくどっちにしても止める気はないようなので、俺が止めるしかあるまい。
「おい、その辺にしとけ」
 やっぱり朝比奈さんを前にすると痴漢女になるのか、お前は。
「だってこんなに可愛いのよ! 信じられないわ、こんな萌え要素の固まりみたいな子がこの世にいるなんて! まさに奇跡的じゃない!?」
 朝比奈さんの可愛らしさが奇跡的なのは心から同意するが、だからといってセクハラをしていい理由にはならん。
 その朝比奈さんはへなへなと床に座り込んでいたが、やがてクスクスと笑い出したのには驚いた。突然どうしたんです?
「ふふふ、だって、やっぱり涼宮さんは涼宮さんだと思ったら、なんだか嬉しくて……」
 なるほど、やっぱり朝比奈さんも俺と同じことを感じていたわけだ。ハルヒはやっぱりハルヒだ、と。そして、めずらしく本から顔を上げている長門も、一見いつも通りに見える古泉も同じことを考えているに違いない。
 当のハルヒはきょとんとした顔をして朝比奈さんを眺めていた。
「あたし、前もこんなことしてたの?」
「ふふ、そうですよ。ちょっと困りますけど、でもやっぱりそれが涼宮さんなんですよね」
 にっこり微笑む朝比奈さんに、ハルヒは困惑を混ぜたような笑顔を向け、聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。
「……ありがと」
 何に対しての礼なのか。今記憶がないハルヒは、もしかしたら自分がここで受け入れられるかという不安があったのかもしれない。俺たちからしたらハルヒを受け入れるなんて当たり前過ぎるのだが、本人がそのことを忘れているのだから。

 その後、このパソコンを使ってたなら見てれば思い出すかもなんて言い出したハルヒがいつも通りにネットサーフィンを始め、長門も目線を本に落としたので、結局俺と古泉が将棋をさすというまるで以前と変わらない時間が流れ始めた。
「正直に申し上げますと、最悪の予想が当たってしまったことにかなり落胆していたのですが」
 そういやお前は楽観論を支持したいなんて言っていたな。
「でもやはり涼宮さんは涼宮さんですね。例え記憶がなくても戻ってきて頂けて幸いです」
 さっきハルヒにもそんなことを言っていた。お追従かとも思ったが、本音だったか。
「もちろん本音ですよ。以前に申し上げたとおり、僕の帰属意識は『機関』よりもここにありますから」
 それから意味ありげな笑みを浮かべると、余計なことを付け足した。
「あなただって、涼宮さんが帰ってこられるのを待っていたのでしょう?」
 俺は返事をする代わりに将棋の駒を動かした。王手。
「……参りました、投了です」
 余計なことしゃべってるから、手がおろそかになるんだよ。


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 それから数日、何事もなく、かといってハルヒの記憶が戻ることもなく平穏に過ぎていった。
 ハルヒは相変わらずクラスメイトの談笑の輪に入っており、話の内容は他愛もないことだと言うのに笑顔で会話している姿を見るのも普通の光景になってきている。
 とはいえエキセントリックなところが変わっている訳ではない。相変わらず宇宙人や未来人や超能力者なんて単語も聞こえて来るのだが、それ自体は以前と変わらないので今更クラスの連中がそれについてとやかく言ったりはしない。ハルヒが変わった部分は、ただの人間とだって話が出来るようになった、というのが一番大きいのだろう。
 そしてそれはとてもいいことだと思う。ハルヒだっていつまでもSOS団以外の連中を人とも思わないような態度で接し続けるわけにもいかない。まだ高校生だから許される部分もあるかもしれないが、いつかはハルヒだって大人にならなければ。
 だから俺もこの状況は歓迎すべきなはずだ。ついハルヒに話しかけてしまった5月以来、ハルヒに用事があるとみんな俺を介して話すって状況は改善したいと思っていたはずだ。

 なのに何故、俺はハルヒが笑顔で話しているのを見るとイライラするんだ?

「涼宮もああやって普通にしていれば相当上位ランクに入るのにな」
 なんてニヤニヤ笑っている谷口の顔を見ているとさらにイライラが増す。
「単純過ぎるだろ、今までを忘れたワケじゃないだろうが」
「まあそう妬くなよ、旦那」
「アホか、なんでそうなる。誰が旦那だ、誰が」
 谷口の戯れ言なんざどうでもいいが、なんでこう気分が悪いんだ。またカルシウムでも不足しているに違いない。また牛乳1Lを一気飲みしたほうがいいのかね。


 その日の放課後、部室に行こうとハルヒに声をかけようとして……クラスメイトの輪の中で楽しそうに話している姿を見て、また嫌な感情が胸中に広がるのを感じた。だからなんでこんなにイライラするんだよ。どう考えたって以前のハルヒより今の方がいいに決まってるだろ。
 だが心の中にある説明しがたい感情を払拭することもできず、俺はそのまま鞄を手にして教室を後にした。どうせハルヒも後から来るだろう。せっかく楽しげに話しているのに俺が邪魔するのもどうかと思うしな。
 自分の気持ちに説明がつかない事実がまた俺を苛立たせる。いい加減にしろよ、俺。だいたい以前から楽しそうなハルヒを見ている方が、入学当初の仏頂面ばかり見ているよりずっといいって思ってたじゃないのか?
 そんなことを考えながら渡り廊下にさしかかったとき、後ろからハルヒの声が追ってきた。
「ちょっと待って、待ってよキョン!」
 慌てて後を追ってきたハルヒを見て意外に思う。さっきまでクラスメイトと楽しげに談笑していた表情は跡形もなく、今はただ不安を隠そうともしないでいる。
「どうした? まだ話してるんじゃなかったのか?」
 さっきの様子からしてすぐに終わるとも思えなかったんだがな。
「だって、キョンが行っちゃうから。部室行くなら声くらいかけなさいよ」
「ああ、何か邪魔するのも悪いかと思ったんで黙って出てきちまった」
 ハルヒはまだ不安そうな顔をしている。なんだっていうんだ、だいたいさっきまであんなに楽しそうだったじゃないか。
「勝手に行っちゃダメ」
「何でダメなんだよ。どうせ行き先なんかわかってるんだろ」
「でもダメ」
「だから何で」
 聞き返した俺を見つめるハルヒは不安を通り越して泣きそうにも見えた。そんな表情をするハルヒに戸惑うが、だからといってどうすりゃいいのかさっぱり解らない。
 俺が先に行くのがそんなに嫌なのか?
「だって……」
「だって?」
 沈黙。黙って俺を睨んだかと思うと目を伏せ、そのまま数秒なにやら躊躇った様子を見せたかかと思うと、再び顔を上げて俺を見据えた。
「あたしだってわかんない。何も覚えてないし何もわかんない。だけど……」
 俺を睨むハルヒの白い顔はやはり泣きそうで、俺は少し後悔した。
 いくら楽しそうに見えても、今までの自分が自分の中にないという不安はいくらハルヒでも常にあるだろう。普段の様子を見ていると忘れそうになるし、実際に忘れていたのかもしれない。でも、こいつはもしかしたらもの凄く不安な気持ちを抱えたまま、笑顔を作っていただけなのかもしれない。
 頭に浮かんだそんな考えを肯定するかのようにハルヒの言葉が突き刺さる。
「だけど、ダメなの。あんたがいないと、凄く不安になるの。自分にだって何でだかわかんないわよ、だけど仕方ないじゃない、あんたがいないとダメなんだから」
 なんだって?
「あたしは誰で、今まで何をしてきたかも全然覚えてなくて、でもあんたがいれば大丈夫って思えて。あんたがいればあたしは笑っていられるって、どうして? なんであたしはそう思うの? あんたはあたしの何?」
 ハルヒがどうしてそう思うのか、それはSOS団の団員でクラスメイトなのが俺しかいないからなんだろう。こいつは記憶を失った後最初に部室を訪れたとき「安心する」と言った。その言葉に偽りはないはずだし、第一そこで嘘をつく理由もない。
 俺はハルヒの何かなんて、むしろ俺が聞きたい。せいぜいクラスメイトでずっと前後の座席、団員その一で雑用係なんて答えしか出てこないのだが、だいたい俺にとってハルヒがなんなのかも解らないのにハルヒにとってなんだと聞かれても困る。

 答えられないでいる俺のシャツを、ハルヒがぎゅっと掴んだ。
「ほんとにワケわかんないわよ。以前のあたしがどう思ってたのかもわかんない。でも、最初からあんたの顔を見てたら安心した。何にも思い出せないのに、あんたを見てたらきっと大丈夫だって思えたの。そんなあんたがずっとそばにいてくれたから────」
 そうだ、俺はずっとハルヒのそばにいた。記憶を失う前も。それは何故だ? なんてことを今更考えることは放棄していた。それはあまりにも当たり前過ぎて、ハルヒが記憶喪失だろうとそうでなかろうと、結局俺はハルヒのそばにいる。

「────あんたが好き」

 ハルヒの言葉を理解するのにたっぷり5秒はかかった。

 俺が好き? ハルヒが?
 ……嘘だろ?
「……って、あれ? あたし何言ってんの? え? ちょっと、あたしなんて言った?」
 当の本人も自分で言ったことが理解できないらしく、軽くパニックを起こしていると思ったら、見る間に真っ赤になると、
「このバカキョン!!!」

 なあ、なんで俺が殴り倒されねばならないんだ?
 インターハイ選手顔負けのスピードで走り去っていくハルヒの後ろ姿を見ながら、俺は一人そう呟くしかなかった……。


 ハルヒの姿が見えなくなってもしばらくその場から動けなかった。
 さっきのハルヒの言葉が頭の中でぐるぐる回っている。
『あんたが好き』
 嘘だろ? あり得ない。
 何かの間違い、じゃなければきっと記憶喪失の不安から手近な人間に頼ろうとする気持ちを恋愛感情と勘違いしただけではないだろうか。
 そうだ、きっとそうに違いない。
 軽く頭を振って部室に向かって歩き出す。ハルヒも部室に行ったのか、それとも自分が言ったことが恥ずかしくてどこかに逃げたのだろうか。
 廊下を歩きながらふと窓を見ると、そこに間抜け面が映っていた。
「……なんでお前はそんなにニヤニヤしてるんだ?」
 ああくそ、こんな顔して部室に行ったら古泉あたりに何を言われるか解らないじゃねえか。しまりのない顔をしやがって、なんでそんなににやついてるんだよ、俺。

 だいたい、殴り倒されといてなんでこんなに嬉しいって感情がわき上がってくるんだよ! マゾか? 俺。

 なんて解らないふりをしても、もう解っちまってるんだから仕方がない。
 そうだよ、俺はハルヒに「好き」と言われて嬉しいんだよ。
 ああ、今なら納得できるさ。なんでハルヒがクラスの連中に笑顔を向けているってことにイラついていたのか、その理由も解る。
 今までSOS団以外にほとんど向けられなかった笑顔を、俺はいつの間にか独占しているつもりでいたんだ。その笑顔が他に向けられるようになって、その独占欲が刺激されたってわけだ。
 まったく、我ながら呆れるほど……。

「結局俺もハルヒのことが……」

 さて、部室に行かなきゃな。ハルヒはそこにいてくれるといいが。


 部室にハルヒの姿はなかった。
「まだこちらには来ていないですよ」
 笑顔でお茶を給仕してくださる朝比奈さんはそう言うと首をかしげた。
「何かあったんですか?」
 ニヤケ面も聞いてくるが、なんて答えればいいんだ。というか答えたくない。そのうちばれるだろうが、今はまだ黙っていたい。こいつにからかわれるなんて冗談じゃねえ。
「屋上」
 そうやって黙秘を決め込んでいた俺の耳に、長門の声が届いた。単語しか話さないのも相変わらずだ。
「屋上?」
 聞き返した俺に顔を上げてうなずくと、再び本に視線を落とした。
 つまりハルヒは屋上にいるってことかよ。
「……やれやれ」
 と言いつつも行かないって選択肢はない。会ってどう話せばいいのかは全然解らないんだが。


 長門の言葉通り、ハルヒは屋上にいた。
 屋上の転落防止フェンス越しに外を眺めているので、その表情は伺えない。
「ハルヒ」
 俺がいることは気がついていたのだろう、声をかけても驚いた様子は見せないどころか、何の反応もない。
「部室、行かないのか?」
 また無反応。やれやれ、いったいどうすりゃいいのか誰か教えてくれ。
「なあ、さっきの────」
 アレは告白なのか、と聞きかけたとたんにハルヒは話し始めた。
「か、勘違いするんじゃないわよ、あれはただちょっと不安になったから勢いで言っただけなんだから! ああもう、記憶喪失って何なのよあたし! 記憶がないからってなんでいきなり本音……ってちがーう! だからもう! さっきまで記憶がなかったから……」
「ちょっと待て!」
 何かいろいろ言い訳してやがるが、今さらりと重大なことを言わなかったか?
「お前『さっきまで記憶がなかった』って、今は思い出したのか?」
 俺の質問にハルヒは振り返って目が合ったかと思うと、いきなり赤面してまたフェンスの方に顔を戻した。
「そ、そうよ、って言ってもまだ所々靄がかかった見たいだけど……だいたい思い出したと思うわ」
「そうか」
 思わず安堵の息を漏らす。
 よかった。なんで今思い出したのかなんてさっぱりわからんが、とにかく思い出したのだから他のことはどうでもいい。
 ここ数日の肩の荷が下りたような気分になった。実際に何か俺がしょっていたワケではなく、俺よりハルヒの方がよっぽどしんどかったんだろうと思うが、やっぱりハルヒには今までのことを忘れて欲しくなんかなかった。SOS団のことも、何より俺と過ごして来た時間のことも。

「なあハルヒ」
「なによ」
「ここ数日、お前にとってどうだったか?」
「どうって?」
「だから、クラスの連中とも仲良くしたり、今までとちょっと違う生活を送っていただろう」
 ハルヒは少し首をかしげた。
「そうね、なんだか不思議な気がするわ。あたしじゃないみたいで、でもあたしだったし……」
 少し考えるような仕草をしてから、後を続ける。
「まあでも、悪くはなかったわね」
 悪くなかった、か。少なくとも入学直後ならそうは思えなかっただろうな。それほどハルヒは変わったってことだ。何かきっかけがなきゃ、こうやってクラスメイトと談笑するなんて考えられなかっただろうが、今回の事件はハルヒにとっていいきっかけになったんだろう。
「……けど」
 けど?
 ハルヒはようやくフェンスから離れて俺の方に振り返った。
「結局悪くないって思えるのも、あんたがいたからだと思うと悔しいわ」
 視線は俺から外して明後日の方を見ているが、その頬は赤く染まっていた。
 そしてたぶん、俺の顔も赤い。

「正直に言うとだな」
「なによ」
「お前がクラスの連中と仲良くするのを見てると、俺も不安になった」
「どうして?」
「……お前が俺から離れていくんじゃないかって」
 結局そういうことだ。俺はハルヒが求める宇宙人未来人超能力者その他奇怪なプロフィールなんか持ち合わせちゃいないわけで、そんな俺がハルヒのそばにいられるのは偶然でしかないだろうが、ハルヒにとっては何かきっかけがあったんだろう。

 俺のセリフをハルヒがどうとったかは知らないが、それに対する答えはこうだった。

「離すわけないでしょ、あんたはSOS団の栄えある団員その一なんだから!」

 やれやれ、結局そこに落ち着くのかよ。団長と団員その一。俺たちはそれ以上でもそれ以下でもない。さっきの告白もどさくさに紛れてなかったことにする気か? なにやら言い訳じみたことを言っていたしな。
 だが、今の俺はそれじゃ面白くないんだよ。

 ハルヒはいつも通りに俺の手首を掴むと、
「部室に行くわよ! 思い出したこと、ちゃんとみんなにも伝えないと心配してるわ!」
 と言って駆けだした。
 離すわけないでしょ、と言ったセリフそのままにしっかり握られた手首をあえてふりほどく。怪訝な顔をして振り返るハルヒの手を今度は俺から握ってやった。

「俺も離さないからな」

 こんなセリフをさらりと言えるとは、恋愛は精神病なんてよく言ったもんだ。
 そして、強く握り替えされた手と俺を見つめる100Wの笑顔は俺だけのものにしておきたい、なんて思ったっていいだろ?

 それくらいの特権を、栄えある団員その一にくれたっていいよな、団長様。


  おしまい。