飛行症候群
短編 | 編集

「ああ、空が飛びたいわ」
 授業中、窓の外を眺めていたらしいハルヒがそんなことをぽつりとつぶやいた。
 本来なら単なる願望として聞き流すことが出来るはずなのだが、相手はハルヒだ。こいつはどうやら願望を現実に変える能力を持っているらしいので、迂闊な希望を持たれると周りが慌てるって方式が成り立っているのである。
「飛行機でも乗ればいいんじゃないか」
 こいつの望みが現実に合ったものならいいと願って言った言葉はあっさりと否定される。
「誰かが操縦するものに座って乗っかってたっておもしろくも何ともないじゃないの」
 古泉がそのうちハルヒに飛行機の操縦までさせそうだが、まさかなんの技術もないうちから準備するなんて言い出さないだろうな、なんて考えが頭をよぎる。
「じゃあ、パラグライダーとかハンググライダーはどうだ? あれなら生身で空を飛んでるようなものじゃないか」
 これなら古泉はすぐに用意するだろう。
「それだって場所とか風とか、条件がいるじゃない。あたしは自分の力で飛びたいの。飛びたいと思ったら飛んで、降りたいと思ったら降りる。道具なんかに頼ってたらそれも無理じゃない!」
 それが出来たらすでに人間じゃねえだろ。
「おいおい、これまでの人類の創意工夫を踏みにじるようなことを言うなよ。人間は何の道具もなしでは飛べないからこそ、いろいろな道具を生み出したんじゃないか」
「うるさいわね、解ってるわよ」
 そう言いつつ頬杖をついて外を眺めるハルヒは変わらず不機嫌そうだった。
 かったるい授業が続く中、いつの間にか後ろで寝息を立てているハルヒに出来ればそんな願い事はとっとと忘れてくれよ、なんて心でつぶやいてみたのもむなしく、ハルヒは自分の願望を取り下げてくれることも、現実に則った形に変えてくれることもなかったらしい。


 ----------


「なるほど、それで今のこの状況なのですね」
 うるさい、俺は赤い球体なんぞに知り合いはいない。いいから人型に戻りやがれ。
「すみません、飛んでいってしまった涼宮さんを追うためにやむを得ず……」
「だったらさっさとハルヒを追えばいいじゃないか、なんで俺のとこで油を売ってるんだよ」
「あなたがここにいるからです」
 理由になっていそうで全然なってねえだろうが。
 いや、それより。
「そうだ、なんで俺がまたここに来なきゃならないんだ」
 先ほどまで授業を受けていたはずの俺は、気づいたらいつか見た灰色空間にハルヒとともに飛ばされていたのだった。
 居眠りをしていたのは俺でなくハルヒだって言うのに。
 いや、だからこそか。
 ここは、ハルヒの夢の世界なんだろう。

 俺は先ほど、この世界に来た時のハルヒとの会話を思い出して、溜息をついた。




「ねえキョン、ここって、前に夢で見たわ!」
 そうだろうな、俺は二度と来たくなかったぜ。
 不気味に燐光を放つ空、色を失った灰色の世界。まさか、またここにハルヒと二人で来るとはそれこそ夢にも思わなかったな。
 俺は教室で授業を受けていたはずだ。いつどうやってここに来たのかさっぱりわからん。さっきまで確かに睡魔に乗っ取られまいとしながら訳のわからない教師の呪文のような言葉を聞いていたはずなんだが。
「あのときも凄く現実的な夢だったけど……やっぱり、これも夢よね?」
 ハルヒはそういいつつ、席を立って窓の外に身を乗り出した。
 おい、危ないぞ。
 などと暢気に考えている間にハルヒの瞳は恒星を詰め込まれたように輝きを増していき、
「そうだわ! ここだったらあたしの願いが叶うのかも! だったらきっと空を飛べるはずだわ!」
 おい、何を言い出しやがる。別にここじゃなくても本気で願えば空は飛べるだろうが、ここだとハルヒが持っている常識とやらが邪魔しないだけ、本気で飛んでしまうんじゃないかと危惧したとたん、
「ほら、見てよ!」
 ハルヒの身体が宙に浮いた。
 そうだよな、そりゃハルヒはこれを夢だと思っているんだから何でもありだよな、でもそうやってハルヒが楽しみ始めたら、しばらくは元の世界に戻れそうにないじゃねえか。
 と思ったのもつかの間、ハルヒはそのまま窓から飛び出してしまった。
「凄いわ! ちゃんと飛べるじゃない! ちょっとその辺ぐるっと回ってくるわ!」
「おい、ハルヒ!」
「あんたはそこに居なさい!」
 言うが早いかそのままどこへやら飛び去ってしまったのだった。俺はその後ろ姿を呆然と見送るのみだった。大丈夫なんだろうな?

「少々困ったことになりましたね」
 そして、あんぐりと口を開けたマヌケ面を晒している俺の前に、これまた見覚えのある赤い球が現れたのだった。




「今回はお前はすんなり入れたのか」
「ええ、ただし他の仲間は入れません。どうやら、涼宮さんがここに居ていいと思っているのはSOS団を始めとする彼女の仲間だけのようです」
 やれやれ、しかし今回は《神人》が出てきても退治してもらえそうだな。

「で、お前はハルヒを追わずに何で俺のところに来たんだ?」
「ですから、あなたがここにいるからです」
「理由になっていないだろうが」
 そういうと古泉は肩を竦めた。
「僕は僕に与えられた能力でここに入りましたが、あなたは涼宮さんが連れて来た、それはお解りでしょう」
 忌々しいが認めよう。俺は好きこのんでこんなところに入り込む趣味はないんでね。
「この閉鎖空間には、今のところ《神人》の気配はありません。涼宮さん自身が楽しんでいるのですから当然とも言えますが、その後どうなるかは誰にも解りません。ですから、早いうちにこの空間を消滅させたいと思っています」
 確か、《神人》が倒されたら閉鎖空間も消えるんだっけな。その《神人》が居ないとなると、古泉には手の施しようがないってことか。
「そういうことです。ですから、あなたにお願いに来た次第です」
「俺にどうしろって言うんだ」
「以前も同じようなことがあったでしょう。そのときにあなたはどうなさったんですか?」
 どうしたって、俺は……って、ちょっと待て!
「いや、それは無理だ! あんな軽挙妄動は二度とするか!」
「いったいどのような軽挙妄動だったのか気になりますが、まあいいでしょう。しかし、どうやら涼宮さんはこの空間で空を飛ぶことがたいそうお気に召されたようです。現在、閉鎖空間が拡がりつつあります」
 マジか。飛べる空間が広い方がいいなんて考えているんじゃないだろうな。
「おそらくそうでしょう。とにかく、早めに何とかした方がよさそうです。出来れば、あなたに涼宮さんを説得して欲しいのですが」
 俺にどうにか出来るとは思えないけどな。とにかく、ハルヒを捕まえた方が良さそうだ。
「そうですね、お願いします。僕がここにいる姿は見られない方がいいと思いますから」
「って、飛んでいったハルヒをどうやって追いかけろと言うんだ?」
「おや、あなたも飛べませんか?」
 飛べるわけないだろ!
「涼宮さんは、ここで人が飛べること自体が当たり前だと思っているはずですから、おそらく飛べますよ」
 おいおい、マジでか? しかし、羽を動かすんでもないのにどうやって飛ぶんだろうな。
「飛べると思えばいいんです。僕も似たようなものですから。飛んでいる自分をイメージする感覚ですね」
 それで飛べれば苦労しないと思いつつも、とにかく俺はどうせ夢オチなら飛んでみるのもいいか、と思ってみた。

「うぉあ!?」

 いきなり窓から飛び出して焦ったのだから、妙な声を出してしまったのは仕方がないという物だ。人間、空中に浮かんだ状態を維持するなんてことに慣れている奴は本来ならいないのだから、どうすりゃいいのかさっぱり解らないまま、俺は教室の窓から飛び出していた。
 そのままどこへ行くともなく迷走のように空中を飛び回る身体を制御できずに、目が回りそうになる。
「おい、どうすりゃいいんだよ!」
「落ち着いてください! ご自分の意志で飛んでいるのですから、空中で止まる状態をイメージすれば止まるはずです」
「んな簡単に言うなよ!」
 体験したことないことを具体的にイメージするってのは思ったより難しい。何でハルヒはあんなに簡単に飛んで行けたのか、全く何でもそつなくこなす器用さがこんな非常識な状況でも発揮できるとは羨ましいもんだ。
 内心そんな文句ともつかないことを思いながら、俺は何とか空中飛行のコツを覚えることが出来た。
 これ、覚えても何の役にも立たないよな。

 で、ハルヒはどこへ行ったんだ?

「この閉鎖空間はまだ学校の敷地にしか拡がっておりません。ですから、涼宮さんも近くにいると思われます」
「ハルヒの居場所が何となくわかる、とかはないのかよ」
「残念ながらそこまでは。この空間内に涼宮さんがいる、そのことははっきり解るのですが」
 そんなことは俺もよく知ってるよ。
「では、涼宮さんのことはお任せします。《神人》が出ることはないでしょうが、僕はいざと言うときのために待機していますから」
 いざと言うときって、どんな時だよ!

 とは言え、以前ハルヒと来てしまった忌々しい閉鎖空間では、数えるのが面倒なくらいわらわらと出てきやがったから、ハルヒがあの《神人》をまた見たいと思うかもしれない。
 そんな心配はするだけ無駄だとは思うけどな。


 ハルヒを見つけるのにそんな苦労はしなかった。閉鎖空間は学校敷地内しか範囲はなく、ハルヒが空から行きそうなところなんてそんなにあるわけでもない。
 ハルヒは、部室の窓から中を覗いていた。
「ハルヒ」
「キョン? なんだ、あんたも飛べたんだ」
 なんだも何も、お前がこの世界をそういう状態にしているんだろうが。いったい物理的にどういうことになっているのかは解らんし、解るつもりもないけどな。
「俺にもよくわからんが、これはお前の夢何じゃないのか?」
「多分そうだとは思うけど。夢にしちゃ現実的過ぎて、あたしにもよくわかんないけどね」
「で、なんか面白い物はあったのか?」
 夢か現実か、なんて議論はしたくないので話題を変える。部室になんかあったのか?
「何もないわ。誰もいないし。古泉くんがいるかと思ったんだけど」
 確かに古泉はこの世界のどこかにいるはずで、それをハルヒが解るのは無意識の成せる業なのか、単に勘がいいだけなのか。
「で、空を飛ぶのは楽しいか?」
「そりゃ楽しいわよ! ああ、どうせなら夢じゃなくて実際に飛べたらいいのに!」
 おいおい、勘弁してくれよ。
「そういう訳にもいかないだろ」
「解ってるわよ、そんなこと。でも、あんたも楽しいんじゃないの?」
「正直言うと結構面白い」
 そりゃ、面白くないとは言わないさ。空を飛んでみたいなんて、誰だって一度は思ったことがあるんじゃないのか? その願望が限定的な空間とはいえ叶っているんだ、思うがままに空を飛べるのは結構楽しい。
「そうだ! せっかくあんたも飛べるんだから、競争でもしない?」
 は?
「負けた方はお昼学食でおごること! じゃ、よーい、どん!」
 待て待て、俺はまだ同意してないし、だいたい昼は弁当だ!
「早く来ないと本当にあんたの負けだからね! 出来るもんなら捕まえて見なさい!」
 おい、それは競争じゃなくて鬼ごっこだ!
 なんてツッコミも当然空振りに終わり、ハルヒはそのまま猛スピードで去って行った。おい、本気で鬼ごっこに変更なのか?
「やれやれ、あいつは何がしたいんだろうね」
 ひとりごちてもしょうがない。俺も後を追うことにするか。

 走るときもハルヒの方が速いとは思っていたが、どうやらそのまま飛行速度にも反映されているらしい。何とかハルヒの姿を見失うまい、としていても、ハルヒはあっという間に俺から離れてしまう。
 そうやって距離を置いては止まって振り返るあたり、なんか腹が立つぞ。

 なんて鬼ごっこで遊んでいるうちに、俺はあることに気が付いた。
 確か古泉は、閉鎖空間は学校の敷地のみと言っていたはずだ。しかし、今俺がいるのは完全に学校の外になっている。

 閉鎖空間が、拡がっている。
 逃げる範囲を拡げるためかもしれないが、早いこと何とかしないとまずいような気がする。

 ハルヒはそんなことはお構いなしに、俺の頭上をさらに上昇しようとしていた。
 そろそろ鬼ごっこは終わりにするぜ、悪く思うなよ。

「おいハルヒ!」
「なによ?」
 ハルヒは俺の斜め上辺りにいるわけであり、そして着ている服は当たり前のように北高の制服である、と言うことは、だ。
「お前、スカートの中が丸見え……ぶっ」
 おい、いきなり蹴りを入れるとはどういうことだ。
 俺が全部言い終わらないうちに視界が上履きの裏でいっぱいになったと思っていたら、顔面にそのままヒットしていやがった。まったく、相変わらず乱暴な奴だ。
「このエロキョン! 何見てんのよ!」
 おい、別に俺が悪い訳じゃなくてお前が勝手に俺の上にいたんだろうが。どちらも空中にいるためにダメージはさほどないが、バランスを崩す。立て直さないとヤバイか?
 と思いつつ、俺はそのまま地面へと落下を始めたのだった。
「キョン!?」
 驚き目を見張るハルヒの顔が遠ざかる。しかしその瞳はすぐに意志を取り戻したかと思うと、今度は怒りに染められた。
「こらー! なに勝手に落ちてるのよ! ちゃんと飛びなさいよ!」
 そう言いながらもすぐに追いついて俺に向かって手を差し伸べる。ハルヒなりに助けようと考えているのかと思うと少し悪い気もして、俺は素直にその手を掴んだ。

「やーっと捕まえた」
「へ?」
 俺の言った意味が一瞬理解できなかったようだが、すぐに悟ると、繋いだままの手を振り解くためにぶんぶんと振り回し始めた。
「ちょっとキョン、落ちるふりするなんて卑怯じゃないの!」
「こら、暴れるな!」
 こいつのことだ、今離したらまた逃げ出すに違いない。そうすりゃ、もうしばらくはこっちで遊んでようなんて考えやがるかもしれない。やってみて解ったが、飛ぶと言うのも結構体力を使うようだ。泳ぐよりはましかもしれんが、スピードを出すと空気抵抗もあるしな。
 早い話が、そろそろ俺は疲れた。授業もかったるいが、それでもいい加減に戻りたいぜ。

 暴れていたハルヒは、いつの間にか大人しくなっていた。
「ちょっとキョン、いつまでそうしているつもりよ」
「は?」
 言われるまで気付かなかったのもどうかしていると思うんだが、俺は暴れるハルヒを抑えるためにいつの間にか後ろから抱きしめるような格好になっていた。
 いや、別に深い意味はない。見かけによらず怪力を発揮するハルヒが逃げないように抑えるにはこうするしかなかっただけってことだ。
「わ、悪い」
 何となく名残惜しい気分になりながら、いや、そんなことはないんだが、とにかく手を離す。また逃げられたら面倒だなという気持ちが伝わったわけでもないだろうが、ハルヒはもう追いかけっこをする気はなくなったようだ。
「あーもう、こんな軽慮浅謀に引っかかるなんて我ながらどうかしているわ」
 その言葉をそこで使うのは馬鹿にされているような気がするんだが、あえて考えるまい。とにかくハルヒを捕まえたわけだから……わけだから? 捕まえたらどうなるっていうんだ?
 この空間をどうにかするためにはハルヒがいなければならんとは思ったが、だからと言ってどうやって帰ればいいのかさっぱりわからん。古泉がどっかにいるはずだから、《神人》が出てくればそれを倒せば終わりなのかもしれない。
 しかし、どうもその気配はないらしいし、ハルヒの前であの《神人》退治の一部始終を見せるのは何となくヤバイような気もする。
 どうすりゃいい?

『白雪姫って知っています?』
『sleeping beauty....』

 って、なぜ今ここでそれを思い出すんだよ!
 そりゃ、一見あのときと同じような状況だが、実際は全然違う。あのときはどうやら“現実”が面白くないから、自分の思い描く世界を作り上げようとした──古泉の言葉を信じるならそういうことだった。
 今回は、ただ単に“空を飛びたい”という願望を満足させたいがために作り出しただけで、満足すればいずれ戻るはずだ。
 問題は、いつになったら満足するかってことだ。2~3日このままって言うのも正直困る。だからといってあんな短慮軽率な行動を取る気はない、断じてないぞ!

「キョン、あんた何を考え込んでいるのよ!」
 俺がこの灰色空間からどう脱出するか悩んでいるかなんてハルヒに取っちゃどうでもいい話らしい。そりゃそうだ、こいつからしたら夢でしかないんだから。
「なあ、ハルヒ」
「なに?」
「そろそろ戻る気はないか?」
 ハルヒは首をかしげた。戻るかどうか決めかねているのか、それとも。
「どうやって?」
 戻り方が解らないらしい。当たり前か。
「俺にも解らん」
「なによそれ」
 呆れ半分軽蔑半分といった視線を投げて寄越す。
「だいたい、これは夢なんだから、放っておけば目が覚めるもんじゃないの?」
「だといいがな」
 俺の何気ない言葉が気になったのか、ハルヒは突然落ち着かなくなったようだ。目が合ったかと思うとまたそらし、しばらくそのままそっぽを向いていた。
「……夢にしちゃ凄くリアルよね。こっちが現実みたい」
 独り言にしちゃ声がでかいな。
「だが、お前はずっとこっちの方がいいなんて思っちゃいないだろ」
 ハルヒはハッとしたように俺を見て、そのまま黙っていた。何だ、俺の顔になんかついているか?
「まったく、夢でもあんたはあんたよね」
「意味がわからん」
 ハルヒは俺のネクタイを掴むとぐいっと引っ張った。そろそろネクタイもくたびれてきているんで手加減してくれないか?

「前に見た夢ではね、こうすれば目が覚めたのよ」
「……!?」

 何で俺が避けてきた選択肢をお前が採用するんだよ!
 ってツッコミも、今は封印しておこうかね。

 俺はそのまま眼を閉じた。


 ----------


「……つまり発熱反応とは高エネルギーの物質が化学反応によって低エネルギー状態に変化するときに、余分なエネルギーを……」

 気付くと俺は先ほどまでと同じようにぼんやりと教師の話す呪文のような言葉を聞き流していた。
 あれ? さっきまでのはやっぱり夢……?
 軽く頭を振って、確か寝息を立てていたハルヒの様子を伺うと、いつの間にか起きていたらしい。視線がぶつかる。
「…………」
 ハルヒはぶつかった視線を押し戻すように睨み付けたかと思ったら、ぷいっと横をむきやがった。なんでいきなり怒っているのか、それとも怒ったふりをしているのか、なんてことは、俺は聞いたりしない。

 その耳まで真っ赤になっているのも、指摘したりはしないでおいておこう。



 あの閉鎖空間に古泉もいたことを途中からすっかり忘れていたことに気付いたのは、その日の放課後になってからのことだった。
「いえ、僕は何も見ていませんが」
 嘘吐くな! 俺とハルヒが部室に入ったとたんに妙なアイコンタクトを取ってきたくせに!
 意味ありげな笑みをたたえたまま、肩を竦めると古泉は話題を切り替えてきた。
「それにしても良かったですよ。あのまま『人間が空を飛ぶことが可能な世界』がこちらと入れ替わってしまったら、大変なことですから。もっとも、本当に入れ替わったとしても、あなた以外は誰も気が付かないでしょうけど」
「そんな心配は無用だろ」
 俺の言葉に驚いたように眼を見開く。
「何故です」
 お前だって解ってるんじゃないのか?
「どんなに非日常を望んでいたって、ハルヒが今のこの世界をなかったことになんてするわけがないだろ」
 古泉は、お茶を手渡す朝比奈さんと談笑しているハルヒに視線を移した。
「そうですね──そう信じたいと思います。最悪の場合を考えてしまうのは僕の悪い癖かもしれません」
 まあ、お前もそれだけ苦労してきたんだろうけどな。
 だけど、ハルヒがどんな世界を望んでいたとしても、結局帰ってくるのはこの部室に違いない。

 信じるとか信じないとかじゃなくて、俺はそれを知っている、それだけの話ってことだ。


  おしまい。