やがて春が来る
短編 | 編集

一応卒業ネタ。

 肌を刺す風に首を竦めて、少し足を速めた。やれ温暖化だの環境破壊だの言われてはいてもまだ春先、朝の空気はまだまだ冷たい。
 空は灰色で、今にも雨が降りそうだ、いや、これだけ空気が冷たく凝縮しているのなら雪になるかな、と空を見上げると、街路樹の間を縫うように白いものが舞い降りてきた。
 雪はすぐに地面を白く覆い始める。俺の口から吐き出される息も白く、そのうちこの辺りは白一色に染められるのだろう。
「まったく、俺は冬は好きじゃないって言うのにな」
 そうは言っても家に引き返すつもりはまったくなかった。この悪天候の中、どうせ俺より早く来ているあいつをこれ以上待たせたりしたらどんな罰ゲームを言い渡されるかわからない。

「遅いわよ!」
 待ち合わせの10分前に到着したって文句を言われるのは相変わらずで、結局俺はこの3年間でこいつに奢らずに済んだことなんてほとんどなかったわけだ。
「悪かったな、奢ればいいんだろ」
「なによ、その開き直った態度」
 軽く睨み付けた瞳は、しかしすぐ憂いの色へと変化した。そんな顔を見られまいとしたのか、踵を返すといつもの喫茶店へと足を向ける。
 どうしてそんなハルヒらしくない表情をしているのかも何となく解っている俺は、黙って後をついて行った。

 店内は暖かく、コーヒーの香りが漂っている中、向かい合って座る。
 今日ここに来たのはハルヒが呼び出したからで、話があるのはハルヒのはずなのだが、いつも無駄に撒き散らしているパワーはどこへやら、カフェオレの入ったカップをいじくり回すだけで一言もしゃべらない。
 俺は俺で、なにを話していいのか解らず、窓の外に眼をやって降り続ける雪を眺めるだけだった。
「……結構積もりそうだな」
 もう春がそこまで来ているなんて信じられないくらいの雪に、俺は少し眉をひそめた。家に帰るのも苦労しそうだ、これは。
 俺の言葉に窓の外に眼をやったハルヒは、ようやく口を開いた。
「このままどんどん積もったら、全部閉じこめられるかな」
「閉じこめられても困るだろ」
「そうかしら? それはそれで面白いんじゃないかしら」
 物騒なことを言いやがる。
「どうせなら何もかも……時間も閉じこめてしまえばいいのに」
 独り言のように付け足した言葉に、俺はやっぱりそうか、と思った。

 ついこの間、俺たちは北高を卒業した。俺とハルヒは別の進路を選んだ。ハルヒと俺の成績を考えれば当然の結果だが、進路調査以来、受験する大学を決めるまで、ハルヒの精神は相当荒れていた、と後から古泉に聞かされた。
 別にこの町から離れるわけではない。俺もハルヒも、長門や古泉や朝比奈さんだってこの町にまだ住んでいるわけで、会おうと思えばいつでも会えるはずだ。
 それでも、共有する時間が今までより相当少なくなるのは間違いない。
 そして、これから一緒にいる時間が少なくなることに寂しさを感じているのは、俺だけではないと思ってはいた。

 だからと言って、今日ハルヒが何のために俺を呼び出したのかは解らない。別に高校時代の思い出をしんみり振り返ろうなんて考えちゃいないと思うんだが。

「あたしね」
 視線は窓の外に固定したまま、誰に話しているのか解らないような言葉は続く。
「中学の時は『楽しい』ってことを知らなかった。ずっとイライラしっぱなしだったし、一人でやることは空回ってばっかりだったし。やってることが無駄なんじゃないかと心のどこかで思いながらも色々やってみたけど、楽しいことなんか何一つなかったの」
 そんな精神状態を砂嵐のよう、と古泉は表現していたな。
「だけど、高校に入ってあたしの世界は変わったわ。あんたに会って、SOS団を作って、有希とみくるちゃんと古泉くんに会って」
 言われなくても、傍で見ていた俺が一番よく知っている。周りに迷惑を振りまくこともあったし、時にはしゃぎ過ぎて眉をひそめるような行動を取ることもあったが、それでもハルヒは間違いなく楽しんでいた。
 そして俺もいつの間にか……。
「あたしはそんな時間がずっと続けばいいと思ってた。去年みくるちゃんと鶴屋さんが卒業して、今までと同じではいられないって解っていても、それでもずっと続いて欲しかった」
 楽しい時が続けばいいと思うのは誰だって同じだ。ハルヒだって、俺だってそうだ。
「卒業してもあたしたちは変わらない、そう思ってたけど。でも、あんたは違う大学に行くし、会う時間は少なくなるわよね」
 そりゃ、3年間同じクラスで、部活だかなんだかわからん団でも一緒だった今まで通りとは行かないだろう。
「そう思って、あたしは気付いたの」
 ハルヒはそこで言葉を切った。カップを持ち上げてカフェオレを口に含み、俺も倣ってコーヒーを飲む。少し冷めてきたな。
「で、何に気付いたんだ?」
 コーヒーを飲み干してもまだ続きを話そうとしないハルヒに、俺は先を促した。

「あたしが楽しいと思うときは必ずあんたが傍にいたってことに」

 しばらく逡巡していたハルヒは、一つ深呼吸をしてから、はっきり俺の眼に向かってそう言った。

 意外に思うべきなのかもしれない。ハルヒがそんなことを言い出すなんて予想していた訳じゃないのだから。
 それにもかかわらず、俺はたいした驚きもなくその言葉を受け入れた。
 一つは、前にも言ったが、俺はずっと傍で見ていたのだから、ハルヒが楽しんでいるときに俺が傍にいるのは当たり前だってことだ。最初から今まで、SOS団で何かするときはずっと隣にいた。
 そしてもう一つ。
「俺もだ」
「へ?」
 ハルヒの方は俺の言葉が予想外だったらしく、その大きな瞳をさらに見開いた。そんなに驚くほどのことか?
「俺も、俺が楽しいと思うときは、必ずお前が隣にいたんだよ」
 正確には少し違うかもしれない。俺が経験してきた数々の非常識な出来事は、とにかく『ハルヒに知られてはいけない』という制約があったからな。
 しかし、そんなとき、その場にいなくても、騒ぎの中心は必ずと言っていいほどハルヒにあった。
 本人だけが何も知らないままで。
 だから、俺はいつの間にか。
「それだけじゃなくて、お前が傍にいなくても、何か面白いことがあったときとか旨い物食ったとき、とにかく心が動かされるときは、いつの間にかお前のことを考えてるんだよ」
「どういう意味?」
「さあな」
 別に罪悪感を感じている訳ではない。ハルヒは何も知らなくても、ハルヒなりに楽しんでいることを知っているし、ハルヒに隠してこなければならなかった事情もわかる。ついでに言うなら、いつかの暴露話を全く信じなかったのはハルヒ自身だ。
 だからといって、じゃあなんで? なんて聞かれると、あらためてその理由を伝えるのはやはり躊躇う。
「誤魔化してるんじゃないわよ」
 ハルヒは不満をその眼に宿した。
 確かに、大学に入学する前に伝えなければと思ってはいたことなんだが、今言うつもりでここに来たって訳でもない。
 前ふりはしちまったわけだが。

 間をおくためにコーヒーカップを持ち上げ、それが空なのに気付いてもう一度皿に戻した。何やってんだ、俺。
 そういや、ハルヒもさっき話を切り出すまで、カップを弄んでたな。
 俺は決意のために息を大きく吸い込んだ。

「つまり、俺はこれからも何か面白いことは、一人でよりお前と一緒に経験したいってことだ」

 さて、この言葉をどう受け止められるか。もっとストレートな言葉があるだろうと言われればそれまでなんだが、俺自身どういうつもりなのかはっきり解っていないのだから仕方がない。
 果たして、しばらくは言葉をかみしめるように考え込んでいたハルヒは、いきなり笑顔になった。
「あたしもだわ」
 ハルヒはどういう意味、とも訊かずにそう答えた。訊かずとも解っているということか、それとも言葉以上の意味は考えてないだけなのか。
 それでもハルヒの笑顔に肩の荷が下りたような気になった。
 今日のこいつのらしくない態度は、結局俺と同じことを考えていたからなのかもしれない。
「じゃあ、あたしはもう行くわね。色々忙しいのよ」
「ちょっと待て、お前は話があるから俺を呼び出したんじゃないのかよ」
 ハルヒが話したのは思い出話のようなもんだ。肝心な部分はまだなんじゃないのか?
「何言ってんのよ」
 ハルヒは悪戯っぽく笑う。
「あたしが言おうとしていたことは、あんたが言っちゃったじゃないの」
「は?」
 何を言われたか意味がわからず呆然としている俺を置いて、ハルヒは勢いよく席を立った。
「うん、明日は不思議探索よ! 朝9時にいつもの場所に集合だから! 遅刻したら、罰金だからね!」
 立ち上がった勢いのままそう言うと、もう用はないとばかりにそのまま店を後にしてしまった。
 俺が立ち直った頃には、ガラス張りのドアを背に去っていく後ろ姿がかろうじて見えるのみだった。
「えーとだな、俺が言ったことが、ハルヒの言いたかったことってことは」
 上手く働かない頭に叱咤激励をする。
 ハルヒも、これから先は俺と一緒にいたいと思っている、と解釈していいんだよな?

 それが恋愛なのかどうかなんて、今はまだ解らない。
 解らなくてもいいんだと思う。これからゆっくり理解していけばいい。

 俺はゆっくりと席を立ち、その時点で始めて伝票がないことに気が付いた。確かに店員が持ってきていたはずなのに。
「どういう風の吹き回しだ?」
 今日は雪でも降るのか、いやもう降っているんだっけな、と思いながら外に出る。
 雪はもうすっかり止み、雲の隙間から太陽が見え隠れして、空も積もった雪も眩しいほどの光で覆われていた。
 雪はすぐに解けるだろう。
 思わず眼を細めながら、溢れる光に春の到来を確信した。

 この街にも、そして俺とハルヒにも。


  おしまい。