涼宮ハルヒの硬直
短編 | 編集

クモや虫が苦手な方は見ないでください。

 午後の授業と言えば気怠い物と相場が決まっているのだが、それが夏の午後ともなると温度の上がった空気自体がだるさを含んでいるような気がする。そんな空気が教室を満たしている状態で俺は睡魔との戦いなど最初から白旗を出して放棄していた。
 ハルヒのおかげと言うべきだろうが、何とか下降にブレーキがかかったとは言え上昇するにはエンジンパワーがまだ不足している成績を考えると暢気に居眠りをしている場合じゃないのかもしれないが、だからと言ってこんな暑い中授業なんか聞いてられるか。

 いつもならそんな状態で午後の授業をやり過ごし、これまた暑い部室で放課後を過ごすことになると思っていたのだが、この日は少し状況が違っていたようだ。
 だからと言って別に宇宙的未来的超能力的事件が起こったわけではない。俺にとっては何のことはない、少し驚く程度の出来事だったが、そうじゃない奴もいたってことだ。

 事件は、俺の頭の上で密かに近づいてきていた。

 かくの如く居眠りを決め込んでいた俺は、ふと空気が変わったのを感じて目が覚めた。それが何か、と問われると上手く説明は出来ない。ただ、俺の後ろの席が何となくいつもと違うような、人に言えば気のせいじゃねえの、と言われそうな、そんな気配だ。
 俺の後ろの席は北高入学以来ハルヒ以外の奴が座ったことはなく、つまり俺が感じた空気はハルヒが発していることに間違いない。
 まだはっきりしない頭で教室の様子を伺うが、俺が眠りこける前と変わった様子はない。教師は相変わらず謎の呪文を唱えており、教室内は暑くて気怠い空気が蔓延していた。
 さて、空気が変わったのは俺の後ろの席だけなのかね。ここは振り返るべきなのか、しかし振り返るとまた面倒ごとが起こりそうな気もしないでもない、だが振り返らないと起こった面倒ごとが更に面倒になることも既定事項、というわけで結局俺は不本意ながら後ろの奴に話しかけることにしたのだった。

「なあ、どうかした……」
 途中で言葉を切ったのは、どうかしたのかと聞くまでもなくどうかしたのがハルヒの顔を見て解ったからで、その原因も俺の目の前にいたからだった。
 しかし、珍しい。
 あのハルヒが、固まっている。
 ハルヒはまだ日焼けしていない白い顔を今は蒼白にして、机の上にいるそいつを凝視していた。
 どこからやってきたのか、俺の目が覚めるほど一気に緊張した空気をまとったってことは、おそらく天井から落ちてきた、というのが正解だろう。
 一匹のジョロウグモが、そこにいた。
 考えるまでもなくメスで、体調は3cm近く、黄色と暗青色の縞模様も鮮やかだ。獲物を食べた後なのか、腹部は大きく膨らんでいて、まあ苦手な奴が見たら固まるのも無理はないようなご面相だ。
 ん? ってことは。
「お前、もしかしてクモが苦手なのか?」
 俺の問いに、ハルヒは視線だけを俺に移した。
「べ、別に、に、が、苦手じゃ、ないわよ」
 嘘吐け。何だよそのぎこちないしゃべり方は。
 それにしても意外だ。だいたいハルヒに怖い物があるなんてこと自体信じられないし、蝉は平気で捕まえるくせに、クモが苦手とはね。
「だ、だから、苦手じゃな……っ! きゃああ!」
 がたん、と大きな音を立ててハルヒが椅子を引いたが遅かった。突然動き出したクモは、ハルヒの胸の辺りに飛び移ったのである。
 ハルヒに悲鳴を上げさせるとは、やるな、クモの奴。
「ちょ、ちょっと、こっちくんな!」
 こういうときに半べそになって涙目で助けを求めでもしたら可愛いのに、などと余計なことを考えたのが悪かったのか、クモを払ってやろうと伸ばした手は、結局役に立たなくなっちまった。

 俺の手から逃れようとしたのか、クモの奴はハルヒの襟からそのまま制服の中へと消えていったのだった。

「……っ!」
 ハルヒは悲鳴を上げることすら出来なくなってしまったようで、反射的にクモを追い出そうともがくような謎の動きを始めた。それはなんかの踊りか、じゃなくて!
「おい! 動くなハルヒ! 中でクモがつぶれるぞ!」
 虫好きなら経験がある人がいるかもしれない。腕なんかに虫を這わせて遊んでいるうちに袖口などから進入してしまい、何とか外に出そうともがいているうちに服の中でつぶれてしまったなんてことがあるだろう。あれ? 俺だけか? とにかく、クモは一般的な昆虫より体が柔らかい。おかげで子育て中の鳥には好餌となってしまうわけだが、つまり昆虫より簡単につぶれてしまうのだ。
 俺のセリフにハルヒは動くことが出来なくなったようで、不自然な体勢で再び硬直。
「……な、な」
 さすがにこらえきれなくなったのか、涙を浮かべた上目遣いで俺を見つめる。なんかいいな、その表情。新たな趣味に目覚めそうだ、って違う、そっち方面の悪趣味を持つつもりはない、いいのはその表情だけで、って俺は何を言っているんだろうね。
「や、やだっ……う、動いてる……」
 なんかそのセリフは生々しいからやめてくれ。ハルヒの白い肌をクモが這っている姿を想像してしまい、俺は何とも言えない気分になった。いや、エロい意味じゃ……なくもないが、それよりさすがに可哀相になってきたってわけだ。青ざめたハルヒはまだ硬直しており、その制服の中にはクモが一匹。
 だからと言って俺がハルヒの制服からクモを取り出すわけには行かない。
 さて、女子でこの状況を打開出来る奴がいるかと教室を見回してみる。これだけ騒いでりゃ当然俺たちは注目の的となっているのだが、こちらを見ている表情から察するに、ハルヒをクモから解放してくれる奴なんて男子でもいそうにない。長門が同じクラスなら、表情を全く変えずに捕まえてくれそうなもんなのにな。
 やれやれ、何でみんなそんなにクモなんかが怖いんだ?

「ちょっ……や、そこは、ダメ……」
 ってハルヒさん、だからそういうセリフを言うなって。そこってどこだよ、クモの奴はいったいどこに入り込んだって言うんだ?
「ちょっと、キョン」
 セリフはいつも通りだが、いつもと違うか細い声でハルヒは俺を呼ぶ。なんかこれ以上そんな声を出されると俺もなんだかダメになりそうなんだが。
「な、なんとかしなさい」
「いや、なんとかしろって言われてもだな」
 なんとかするにはハルヒが制服を脱ぐか、俺がハルヒの制服の中に手を突っ込むかしかないわけで、どっちもまずいだろ、色々と。
「いいから、は、早く! なんとかしてよっ!」
 これだけ騒ぐくらいなら、そのトンデモ能力で何とかしちまえばいいのに、こういうときだけ発動しないのはなんでかね。
 そのとき、ポケットの中で俺の携帯が震えた。授業中なのでバイブにしてあったのだが、誰からかなんてことは何となく見なくても解るような気がして、俺は溜息をついた。
 十中八九、古泉にバイトが入ったのだろう。
 やれやれ、クモの一匹で世界の危機とはね。
 だが、本気で何とかしなければならないようだ。まったく、能力発動するのがそっち方面ばかりなのこそなんとかならないのかね。

「ハルヒ、後で怒るのはナシだからな」
 正直、こんな前置きをしたところで何の意味もないのは解っているんだが、それでも多少の保険はかけたくなる気持ちをご理解願いたい。
 さすがに教室で制服を脱がすのは複数の理由で俺がいやなので、身動きの取れないハルヒのスカートから上着の裾を出す。クラス中の注目を浴びている状態で、これだけでも相当な羞恥プレイだ。
 いつの間にか授業もストップして先生までこっちを凝視してやがる。職務怠慢だろ。
「で、クモはどの辺にいるんだ」
 まさか闇雲に手を突っ込んでハルヒの身体をまさぐるわけにもいくまい。そこ、実はしたいだろうとか言うなよ? こんな状況でそんなことしたいと思うわけないだろうが!
「お、お腹のあたり……」
 お腹のどの辺なのかまで教えてくれるとありがたいんだがな。
 俺は今持ち合わせているありったけの勇気を振り絞ると、制服の裾からおそるおそる手を入れた。

 出来るだけ肌に触れないように、なんて気を遣っているもんだから、クモがどこにいるか探ることもままならない。だが探さないわけにもいかず、
「やっ そこじゃないわよ! どこ触ってんのよ!」
「アホか、触らなきゃ捕まえられないだろうが!」
 ってもう勘弁してくれ。
 どうしても触れてしまうハルヒの肌は少し汗ばんでいて、いつもエネルギーを発散しているハルヒらしく、俺の体温より高く感じられた。
 いやいやいや、違う、俺は何を考えているんだ。それよりクモだ、コイツをどうにかしなきゃならないのだ。
「おい、クモはどこだよ」
 これ以上教室でこんなことを続けたくはない。なんだか頭がおかしくなりそうな状況で、こんだけ注目を浴びながら女の子の服に手を突っ込んでいる俺ってどうなんだよ?
 何とか早期解決を試みた俺の質問に対する答えは、冷静ならば予想内にもかかわらず、俺にとっては予想の斜め上を行くものだった。
「…………胸の辺り……」
 そうか、じゃあもう少し上……って、なんですと? 胸? 胸って言った?
 いや、落ち着け、俺。とにかく今はハルヒの服からクモを取り出すことが先決だ、後のことは考えるな。いいか、考えるなよ!
 ウエスト辺りと違って、胸部は服と身体の隙間が少ないわけで、スレンダーなくせに何というか立派な胸を持ち合わせているハルヒの胸の辺り、と言えば、おそらくその間の隙間だろうと見当をつけ、思い切ってその位置に手を動かした。
 その少ない隙間に手を入れたおかげで、柔らかい感触が手を通して脳に伝わってくるが、その神経が伝える信号を極力無視、俺は闇雲に掴んだ手の中に何かがいることを確認して、次の瞬間にはハルヒの制服から手を引き抜いた。
「……捕まえたからな」
 軽く握った俺の手の中には、騒動の原因である大きなジョロウグモがもがいていた。
「……」
 せっかく捕まえたというのに、ハルヒは感謝の言葉のひとつも言わずに俺を黙って睨み付けた。畜生、言いたいことは解らんでもないが、俺だって必死だったんだからな。だから最初に怒るのはナシと言っただろうが。
「……うるさいわね! それより、早くそれを何とかしなさい!」
 先ほどまで青ざめていたハルヒは、今は真っ赤になりながらそう命令すると、そのまま教室の外へと歩き出した。
「おい、どこへ行くんだ?」
「誰が制服乱したと思ってるのよ、このバカキョン!」
 だから怒るのはナシって……まあ最初から諦めているけどな。

 ふと気が付くと、クラスの全員が先生も含めて俺を見ていた。ニヤニヤしたり赤面したりしている表情を見て、頭を抱えたくなる。
 これが不可抗力なのは解っているだろうな、おい。
 何だって俺がこんな羞恥プレイに耐えねばならんのか、誰か教えてくれ。
「おい、谷口」
 やはりニヤニヤ笑ってやがる谷口に声をかけて近づく。
「なんだよ」
 表情を変えないまま答える谷口の顔面に、先ほどから俺の手の中で八本の足をじたばたさせていたそいつを放ってやった。

「うぎゃああああああ!!??」

 だから何でたかがクモにそこまで騒ぐんだよ。いきなり顔面に投げられたら俺でも多少びっくりしなくもないけどな。
 あー、少しだけすっきりした。



 さて、その日の放課後。
 いつも通り部室に行く途中もハルヒはずっと文句を言い続けた。だから俺は悪くないだろうが。
「だいたいクモを手づかみ出来るなんてどうかしてるわよ。気持ち悪い」
「そのおかげでお前は助かったんだろうが。俺がクモ苦手だったら、誰も捕まえることができなかったんだろ」
「だったら服の中に入り込む前になんとかしなさいよ! なんであたしがあんたに、あ、あんなことされなきゃ……」
 わかった、俺が悪かったからそれ以上言うな。
 だが、クモは別にたいした虫じゃないぞ? 日本にいるクモは人間に影響を及ぼすような毒もないし、害虫を食べる益虫だ。実際無農薬栽培では実験的にクモを使って虫害を減らしているところもあるんだからな。だいたい昆虫とさして変わりはない、かのファーブルだって昆虫記で有名だがクモも大好きで、家はクモの巣だらけだったんだぜ。
「うるさい、クモの話題は今後禁止!」
 俺の話を一刀両断すると同時に部室へ到着。俺がノックするまもなくハルヒがドアを蹴り開けるが、残念ながらというべきか、誰もいなかった。

「そういえばみくるちゃんは進路指導会って言ってたわ」
「古泉はバイトだそうだ」
 俺も思い出して付け加える。まあ、あれだけ嫌な思いをすれば、古泉にバイトが入るのも仕方がないだろう。
「有希は?」
「さあな、コンピ研じゃないのか?」
 いつも必ず先に来ている長門がいないのは珍しい。たまにいなくなるのはたいていお隣さんなので、今回もそうなのだろう。
 ハルヒはいつも通りに団長席に向かい、椅子に座ろうとしていきなり動かなくなった。
 今日のクモ事件のときのように、また固まってやがる。
 おい、どうした?
 動かなくなったハルヒに近づいて、俺もそいつに気が付いた。

 団長机の上に、一匹のクモがいる。

 おいおい、これは何の冗談だ?
 もうクモはこりごりなんじゃないのか?

 さすがにどうにかした方がいいと思った俺の行動よりクモの方が速かった。
 クモは、まるで先ほどの騒ぎを知っているかのように、ハルヒに飛び移った。
「ひっ……!」
 さすがに先ほどの記憶は生々しいに違いない。ハルヒはまた青ざめて硬直している。おい、まさかまた……。

 こんなときばかり予想は当たりやがる。
 クモは、ハルヒのスカートの中へと消えていった。

「……ねえ、キョン……」

 再び涙目で俺を見つめるハルヒ。

「クモ、なんとかして……」

 古泉はバイト、長門はいない。朝比奈さんはいてもあまり役に立ちそうにないが、まだしばらくは来れないだろう。

 部室にはハルヒと俺の2人きり。
 クモはハルヒのスカートの中。
 さあ、どうする?


 ごくり、と俺はつばを飲み込んだ。


  おしまい。