七夕の日は憂鬱に 後編中編 | 編集
前編・後編
北高がこんな坂の上にあることを今日ほど呪ったことはない。
俺は呪詛の言葉を吐き出す元気もなく、肩で息をしながらなんとか門の前まで辿り着いた。
しばしの間、呼吸を整えてから当然しまっている門に足をかける。門番がいるわけでもないので見とがめられるわけはないのだが、さてこの先に待っているのは何の掟か、ってそんなわけはない。
ハルヒは古泉が言ったとおり、グラウンドの真ん中辺りでラインカーを持って立っていた。何か描いているように見えないのは、その図形の出来を測っているのか。
まったく、四年前は人に全部描かせて偉そうに指示していただけだというのに、今回はどういうわけで一人でやろうなんて思ったんだ? こういう作業は雑用にでもやらせりゃいいってわけでもないしやりたくもないが、ハルヒらしくないじゃないか。
「おい」
早足でハルヒの傍まで歩きながら声をかけると、悪戯を見つかった妹のようにビクッと肩を震わせた。確かに悪戯している最中だったな。
だが、俺を振り返ったハルヒの瞳に宿っている光は、けして悪戯が見つかった子供の物ではなかった。
声をかけられて驚いているのは確かだが、その瞳は何かを期待するように一瞬輝いたかと思うと、今度は明らかに落胆したように色を落としたのだった。
「なんだ、あんたか」
なんだとはご挨拶だな。俺が来ちゃ悪かったとでも言うのかよ。
「そうじゃないけどさ。もしかしたら、って思っただけ」
あのとき俺が描かされた地上絵の意味は、『わたしは、ここにいる』だっけか。
「まさか宇宙人でも現れて声をかけたとでも思ったのか」
「違うわよ」
「そうか」
そうだと思ったさ。なぜなら、今日ここに描いてある絵は、あのときとは別物だからだ。込められている意味も違うだろうが、何故ハルヒが今更これをでかでかと描く気になったのか。
だが、面白くない。何故ハルヒは一人でやろうとするんだ。
何かあったらSOS団を巻き込むのがお前の流儀だろうが。
「なあ、ハルヒ」
「なによ」
「何で突然、こんな地上絵を描こうと思ったんだ?」
「別に。昔やったのは知ってるでしょ」
「ああ」
知ってるも何も、描いたのは俺自身だ。
「またやってみようと思っただけ。初心に戻るのも悪くないでしょ」
初心ってなんだ。SOS団の初心なら高校に入ってからだろうが、ハルヒが学校で妙なことをやらかすようになったのは地上絵が最初だったか?
「初心に戻るのも悪くはないが、何で一人なんだよ」
くそ、ここで巻き込まれることを望んでいるわけじゃないってのに、何故俺たちを巻き込まないのかと思うと腹立たしい。矛と盾はどちらが強いかなんてどうでもいいが、俺もどうしたいのかはっきり解らない。
「何でって……」
「こういう作業は人にやらせて自分は命令するのがいつものお前だろうが」
あのときの七夕のように。
「それにだな」
そうさ、俺たちは、SOS団はこういうときは一連託生だ。明日になれば教師に呼び出されて説教喰らうのがおそらく既定事項だが、それをハルヒ一人に押しつけようなんて誰も思っちゃいないはずだ。
「この絵を描くならなおさらお前一人じゃなくて、俺たち全員を巻き込むべきじゃないのか。五人そろってのSOS団だろうが」
まだ完成していない絵を見ながら俺は腹が立っていた。よりによって、この絵だ。この絵は俺にとってはあまりいい思い出があるわけじゃないが、だからと言ってすでにハルヒ一人のものってわけでもないんだ。
ハルヒは未完成の絵に視線を固定したまま、俺の文句を黙って聞いていた。言い返してこないのが不気味だ。ハルヒという人間は何を考えているのか常人には理解しがたいのだが、その行動基準が判明すれば案外解りやすい。
だからこそ、今俺に反論もせずに無表情で描きかけの絵を眺めていることが理解しがたいのだ。
一体、何を考えてやがる。
「なあ、今日これを描こうと思ったのは、やっぱりあの笹についていた短冊が原因か?」
俺は残念ながら相手の思考を読めるような超能力なぞ持ち合わせておらず、もし持っている奴がいたら是非ハルヒの思考をいちいち解説して貰いたいとも思うわけだが、とにかく何を考えているのかを知りたければ直接訊くしか方法がない。だが、今日のおかしな行動の原因くらいは推測できる。他に心当たりがないってだけだがな。
あの短冊にはなんて書いてあったんだ?
湿気を含んだ風が俺たちを撫でていく間、俺もハルヒも何も話さなかった。ハルヒは無表情に前方を睨み付けているだけだったが、よく考えたら俺の質問も悪かったかもしれない。コイツはこの仕事を一人でやり遂げようとしていた。俺にすら手伝わせようとしなかったことを考えると、短冊の件も触れて欲しくない部分だったのかもしれない。
短冊の送り主は、ハルヒが秘めておきたい相手ということか。
そう考えたとたん、腹の中に言いようのないむかつきが立ち上ってきたのだが、それが何故かと考えるのは無駄なような気がして慌てて追い払った。それ以前に、俺はこういうことをハルヒが一人でやっていること自体に腹が立っているわけであって、別に短冊がどうとか気にしているからむかつくって意味がわからん、ああもうどうでもいい。
「4年前、ね」
俺が無意味なむかつきと無駄に格闘していると、ハルヒが突然呟いた。沈黙に慣れてきていたところだったのでどきりとする。心臓に悪い奴だ。
「変な奴に会ったのよ」
「変な奴?」
4年前の七夕。女の子を背負って、学校に不法侵入しようとしていた奴に声をかけたあげく、その女の子を放って巨大なラクガキの手伝いをした奴。客観的に見れば変な奴かもしれない。俺だがな。
「そのときはそれほど気にしなかったのよ。変な奴とは思ったけど、どうせまた会えると思ってたし。でも……」
会えなかった。
「どこを探しても見つからなかった。北高の制服を着ていたし、見つけようと思ったらあたしなら簡単に見つけられるって自信もあったのよ」
ハルヒは薄く笑う。
「あたし北高の生徒を全員調べたのよ。張り込みだってしたわ。でも、そいつみたいな奴はいなかった。もっと顔をよく見ておいたらよかったって思った。それで結局、見つからないままあたしは北高に入学したの」
どこかで聞いたようなセリフだ。見つからなかった謎の高校生。「謎の」なんてハルヒにとって上等なキーワードに違いなく、見つからなければ見つからないほどムキになって探したのかもしれない。
って、ちょっと待て。
俺が短冊のことを聞いて、ハルヒはおそらく初めて4年前の七夕について語った。
てことは、短冊の送り主は、まさか?
「もう、そんな奴はいなかったのかも、って思い始めてたの。あれは織姫と彦星が見せた夢みたいなものかもってね。夢にしちゃはっきりし過ぎてるけど、あたしたまに夢とは思えないほどはっきり覚えている夢を見るのよ」
そんなことを言って俺をちらりと見るのは止めてくれ。夢とは思えないほどはっきりした夢ってのに心当たりがありすぎる上に、しかもこの北高のグラウンドって場所はどうもシチュエーションが重なりすぎて落ち着かないじゃないか。しかもそれを悟られたら困るって制限付きだ。
「だから今日、あの笹と短冊を見たときは心底驚いたわ。それで、ああやっぱり夢じゃなかったんだって思った」
待て待て待て。
てことは、やっぱりあの短冊はジョン・スミスからのメッセージなのか?
ジョン・スミスは俺だ。
そして、俺はそんな青竹を用意した記憶もなければ短冊を書いた記憶もない。なのに、実際にあそこに青竹を置いて、短冊をぶら下げたのも俺らしい。
一体どういう────
そう考えていた俺の脳裏に、大人版朝比奈さんの見る者すべてを恋に落としそうな笑顔が浮かんだ。ウインクのおまけ付きだ。
なるほど、あくまでもあれを用意したのは俺じゃなくてジョン・スミスってことか。
て、わざわざ青竹を用意するくらい俺でもできるってのに、何で時間を超えてまでやらなきゃならないんだ。
長門や朝比奈さん(大)は理由を知っているのだろうが、どうせ俺には解らないに違いない。
「で、その短冊にはなんて書いてあったんだ?」
これは知らなければならない。知らなければ、未来の俺がハルヒにメッセージを送ることなんかできなくなっちまう。
「教えない」
っておい! それじゃ俺が困る!
しかし何故困るか言えるわけもなく、ハルヒのいたずらっ子のような笑顔を見ると問いつめる気も失せてしまうので、俺はそれ以上訊くことができなかった。
「そうかい」
せめてぶっきらぼうに言うくらいはさせてくれ。
そういや、この地上絵は何だ? そいつへの返事ってとこなのか?
「そうよ。よく解ったわね」
だからお前の行動はパターンを読めれば解りやすいんだよ。と言いつつ全然解らんことも多いのだが、やっぱり解りにくいのか。
「その返事がこのマークって、どういうことだ?」
「何よ、意味がわからないの?」
「さっぱり解らん」
ハルヒはあからさまに不機嫌になる。まったく、最初は一人でやりたいと思っていたんじゃないのか。一人でやってるくせに理解して欲しいってのはワガママを越えてるだろ。
ハルヒは再び俺をじろりと睨むと、すぅっと息を吸い込んだ。
そして、まるで選手宣誓をする高校球児のように高らかに叫んだ。
「SOS団、ここにあり!」
まあ、本当はそんなとこだろうと思っていたさ。だいたい、このマークにもともと深い意味を込めちゃいなかっただろうが、お前は。
俺は意気揚々と得意げな笑顔が戻ったハルヒにどこか安心しながら、もう一度未完成の地上絵へと視線を向けた。
まだできあがっていないとはいえ、何を描こうとしていたかは一目瞭然だ。
徹夜明けで休日出勤を二ヶ月連続やっている万年係長候補が迎え酒をしながら歩いた跡────ではなく、ハルヒが作ったSOS団のエンブレムだ。
「なあ、ハルヒ」
「なによ」
このマークにいい思い出はない。どうもカマドウマだのを思い出しちまうし、あの現実味のない空間にはもう行きたいとも思わない。
だけどな。
「このエンブレムはSOS団のものだろ。いくら団長とは言っても、お前一人でやるのはどうかと思うぜ」
お前は伝えたかったんじゃないのか?
SOS団で(俺からすれば無駄に)活躍してるってことを。
今がとても楽しいってことを。
それは、お前一人の物じゃないはずだぜ。
一瞬意味をとらえきれないようにきょとんと目を見開いたハルヒは、次に……ああ、やっちまった、と俺に思わせるに十分な笑顔に変わった。
その黒い笑顔は止めろ、次に何を言い出すのか完璧に予想できちまうから。
「いい心がけだわ、自ら手伝おうなんてあんたも雑用の自覚が出てきたんじゃない!」
そんな自覚はした覚えがないし金輪際するつもりもない。
「じゃあ、あたしが指示するからあんたが続き描きなさいよ!」
やっぱりそう来たか。こんな予想が当たってもちっとも嬉しくない。
かといって手伝わないなんて選択肢をハルヒが用意するわけがないのだが、一つ問題というか不安がある。
夜のグラウンドでラインカーと俺を酷使して地上絵を描く。しかもハルヒはジョン・スミスのことを思い出しているわけで、ジョン・スミスは俺である。
ハルヒは無駄に勘がいいからな。気付くんじゃないか?
「手伝わないとは言わんが」
「無駄口たたかずにさっさとやりなさい」
「いや、だからさっき言っただろうが。このエンブレムはSOS団の物だろうって」
「へ?」
「あいつらも呼ぶぞ」
俺一人こき使われるなんて冗談じゃない。あいつにも働かせてやる。朝比奈さんと長門には申し訳ないが、事情が事情だけに協力しくれるだろう。二人とも、俺がジョン・スミスであることが露見するのは好ましくないと思っているはずだ。
電話を取り出したとたんにハルヒに取り上げられたのは言うまでもない。
「ちょっと、雑用のくせに何勝手に指示出してるのよ! 集合かけるのも団長の役目なんだからね!」
偉そうに言うハルヒには、完全に100Wの笑顔が戻っていた。
「だったらこんな手間をかけさせるなよ」
「何よ、手間って」
「お前が七夕に憂鬱になる理由はわかったけどな、今更一人で解決しようなんて思うなよ」
こんなことを言うとムキになって言い返しそうなもんだが、ハルヒは意外にも素直に俺の言葉を受け止めたようだ。
「ええ、よく解ったわ。あたしはもう、」
暗闇に白く浮かぶエンブレムに瞳を固定させる。
「一人じゃない」
そうさ、よく覚えとけよ。
その地上絵が翌日学校で話題になったのは言うまでもなく、俺の予想通りSOS団全員が職員室に呼び出されて説教を喰らったのだが、ハルヒは全く悪びれずに逆に言い返していたこともほぼ既定事項通りであった。
----------
3年後、このときのハルヒの疑問が原因で俺の存在が弱くなっている(としか理解できない説明だった)と聞いたときは目眩がしたね。おかげで久しぶりの時間旅行に竹を切ったり短冊を吊したり、と忙しい時間を過ごしたわけだ。
3年後の俺、まさにハルヒから見ればジョン・スミスである。
で、あの短冊になんて書いたって? 悪いが、それは一生の禁則事項とさせてもらおう。
そうだな、ジョン・スミスから3年前のハルヒへのラブレター、ってことで納得しておいてもらえないか。
おしまい。
北高がこんな坂の上にあることを今日ほど呪ったことはない。
俺は呪詛の言葉を吐き出す元気もなく、肩で息をしながらなんとか門の前まで辿り着いた。
しばしの間、呼吸を整えてから当然しまっている門に足をかける。門番がいるわけでもないので見とがめられるわけはないのだが、さてこの先に待っているのは何の掟か、ってそんなわけはない。
ハルヒは古泉が言ったとおり、グラウンドの真ん中辺りでラインカーを持って立っていた。何か描いているように見えないのは、その図形の出来を測っているのか。
まったく、四年前は人に全部描かせて偉そうに指示していただけだというのに、今回はどういうわけで一人でやろうなんて思ったんだ? こういう作業は雑用にでもやらせりゃいいってわけでもないしやりたくもないが、ハルヒらしくないじゃないか。
「おい」
早足でハルヒの傍まで歩きながら声をかけると、悪戯を見つかった妹のようにビクッと肩を震わせた。確かに悪戯している最中だったな。
だが、俺を振り返ったハルヒの瞳に宿っている光は、けして悪戯が見つかった子供の物ではなかった。
声をかけられて驚いているのは確かだが、その瞳は何かを期待するように一瞬輝いたかと思うと、今度は明らかに落胆したように色を落としたのだった。
「なんだ、あんたか」
なんだとはご挨拶だな。俺が来ちゃ悪かったとでも言うのかよ。
「そうじゃないけどさ。もしかしたら、って思っただけ」
あのとき俺が描かされた地上絵の意味は、『わたしは、ここにいる』だっけか。
「まさか宇宙人でも現れて声をかけたとでも思ったのか」
「違うわよ」
「そうか」
そうだと思ったさ。なぜなら、今日ここに描いてある絵は、あのときとは別物だからだ。込められている意味も違うだろうが、何故ハルヒが今更これをでかでかと描く気になったのか。
だが、面白くない。何故ハルヒは一人でやろうとするんだ。
何かあったらSOS団を巻き込むのがお前の流儀だろうが。
「なあ、ハルヒ」
「なによ」
「何で突然、こんな地上絵を描こうと思ったんだ?」
「別に。昔やったのは知ってるでしょ」
「ああ」
知ってるも何も、描いたのは俺自身だ。
「またやってみようと思っただけ。初心に戻るのも悪くないでしょ」
初心ってなんだ。SOS団の初心なら高校に入ってからだろうが、ハルヒが学校で妙なことをやらかすようになったのは地上絵が最初だったか?
「初心に戻るのも悪くはないが、何で一人なんだよ」
くそ、ここで巻き込まれることを望んでいるわけじゃないってのに、何故俺たちを巻き込まないのかと思うと腹立たしい。矛と盾はどちらが強いかなんてどうでもいいが、俺もどうしたいのかはっきり解らない。
「何でって……」
「こういう作業は人にやらせて自分は命令するのがいつものお前だろうが」
あのときの七夕のように。
「それにだな」
そうさ、俺たちは、SOS団はこういうときは一連託生だ。明日になれば教師に呼び出されて説教喰らうのがおそらく既定事項だが、それをハルヒ一人に押しつけようなんて誰も思っちゃいないはずだ。
「この絵を描くならなおさらお前一人じゃなくて、俺たち全員を巻き込むべきじゃないのか。五人そろってのSOS団だろうが」
まだ完成していない絵を見ながら俺は腹が立っていた。よりによって、この絵だ。この絵は俺にとってはあまりいい思い出があるわけじゃないが、だからと言ってすでにハルヒ一人のものってわけでもないんだ。
ハルヒは未完成の絵に視線を固定したまま、俺の文句を黙って聞いていた。言い返してこないのが不気味だ。ハルヒという人間は何を考えているのか常人には理解しがたいのだが、その行動基準が判明すれば案外解りやすい。
だからこそ、今俺に反論もせずに無表情で描きかけの絵を眺めていることが理解しがたいのだ。
一体、何を考えてやがる。
「なあ、今日これを描こうと思ったのは、やっぱりあの笹についていた短冊が原因か?」
俺は残念ながら相手の思考を読めるような超能力なぞ持ち合わせておらず、もし持っている奴がいたら是非ハルヒの思考をいちいち解説して貰いたいとも思うわけだが、とにかく何を考えているのかを知りたければ直接訊くしか方法がない。だが、今日のおかしな行動の原因くらいは推測できる。他に心当たりがないってだけだがな。
あの短冊にはなんて書いてあったんだ?
湿気を含んだ風が俺たちを撫でていく間、俺もハルヒも何も話さなかった。ハルヒは無表情に前方を睨み付けているだけだったが、よく考えたら俺の質問も悪かったかもしれない。コイツはこの仕事を一人でやり遂げようとしていた。俺にすら手伝わせようとしなかったことを考えると、短冊の件も触れて欲しくない部分だったのかもしれない。
短冊の送り主は、ハルヒが秘めておきたい相手ということか。
そう考えたとたん、腹の中に言いようのないむかつきが立ち上ってきたのだが、それが何故かと考えるのは無駄なような気がして慌てて追い払った。それ以前に、俺はこういうことをハルヒが一人でやっていること自体に腹が立っているわけであって、別に短冊がどうとか気にしているからむかつくって意味がわからん、ああもうどうでもいい。
「4年前、ね」
俺が無意味なむかつきと無駄に格闘していると、ハルヒが突然呟いた。沈黙に慣れてきていたところだったのでどきりとする。心臓に悪い奴だ。
「変な奴に会ったのよ」
「変な奴?」
4年前の七夕。女の子を背負って、学校に不法侵入しようとしていた奴に声をかけたあげく、その女の子を放って巨大なラクガキの手伝いをした奴。客観的に見れば変な奴かもしれない。俺だがな。
「そのときはそれほど気にしなかったのよ。変な奴とは思ったけど、どうせまた会えると思ってたし。でも……」
会えなかった。
「どこを探しても見つからなかった。北高の制服を着ていたし、見つけようと思ったらあたしなら簡単に見つけられるって自信もあったのよ」
ハルヒは薄く笑う。
「あたし北高の生徒を全員調べたのよ。張り込みだってしたわ。でも、そいつみたいな奴はいなかった。もっと顔をよく見ておいたらよかったって思った。それで結局、見つからないままあたしは北高に入学したの」
どこかで聞いたようなセリフだ。見つからなかった謎の高校生。「謎の」なんてハルヒにとって上等なキーワードに違いなく、見つからなければ見つからないほどムキになって探したのかもしれない。
って、ちょっと待て。
俺が短冊のことを聞いて、ハルヒはおそらく初めて4年前の七夕について語った。
てことは、短冊の送り主は、まさか?
「もう、そんな奴はいなかったのかも、って思い始めてたの。あれは織姫と彦星が見せた夢みたいなものかもってね。夢にしちゃはっきりし過ぎてるけど、あたしたまに夢とは思えないほどはっきり覚えている夢を見るのよ」
そんなことを言って俺をちらりと見るのは止めてくれ。夢とは思えないほどはっきりした夢ってのに心当たりがありすぎる上に、しかもこの北高のグラウンドって場所はどうもシチュエーションが重なりすぎて落ち着かないじゃないか。しかもそれを悟られたら困るって制限付きだ。
「だから今日、あの笹と短冊を見たときは心底驚いたわ。それで、ああやっぱり夢じゃなかったんだって思った」
待て待て待て。
てことは、やっぱりあの短冊はジョン・スミスからのメッセージなのか?
ジョン・スミスは俺だ。
そして、俺はそんな青竹を用意した記憶もなければ短冊を書いた記憶もない。なのに、実際にあそこに青竹を置いて、短冊をぶら下げたのも俺らしい。
一体どういう────
そう考えていた俺の脳裏に、大人版朝比奈さんの見る者すべてを恋に落としそうな笑顔が浮かんだ。ウインクのおまけ付きだ。
なるほど、あくまでもあれを用意したのは俺じゃなくてジョン・スミスってことか。
て、わざわざ青竹を用意するくらい俺でもできるってのに、何で時間を超えてまでやらなきゃならないんだ。
長門や朝比奈さん(大)は理由を知っているのだろうが、どうせ俺には解らないに違いない。
「で、その短冊にはなんて書いてあったんだ?」
これは知らなければならない。知らなければ、未来の俺がハルヒにメッセージを送ることなんかできなくなっちまう。
「教えない」
っておい! それじゃ俺が困る!
しかし何故困るか言えるわけもなく、ハルヒのいたずらっ子のような笑顔を見ると問いつめる気も失せてしまうので、俺はそれ以上訊くことができなかった。
「そうかい」
せめてぶっきらぼうに言うくらいはさせてくれ。
そういや、この地上絵は何だ? そいつへの返事ってとこなのか?
「そうよ。よく解ったわね」
だからお前の行動はパターンを読めれば解りやすいんだよ。と言いつつ全然解らんことも多いのだが、やっぱり解りにくいのか。
「その返事がこのマークって、どういうことだ?」
「何よ、意味がわからないの?」
「さっぱり解らん」
ハルヒはあからさまに不機嫌になる。まったく、最初は一人でやりたいと思っていたんじゃないのか。一人でやってるくせに理解して欲しいってのはワガママを越えてるだろ。
ハルヒは再び俺をじろりと睨むと、すぅっと息を吸い込んだ。
そして、まるで選手宣誓をする高校球児のように高らかに叫んだ。
「SOS団、ここにあり!」
まあ、本当はそんなとこだろうと思っていたさ。だいたい、このマークにもともと深い意味を込めちゃいなかっただろうが、お前は。
俺は意気揚々と得意げな笑顔が戻ったハルヒにどこか安心しながら、もう一度未完成の地上絵へと視線を向けた。
まだできあがっていないとはいえ、何を描こうとしていたかは一目瞭然だ。
徹夜明けで休日出勤を二ヶ月連続やっている万年係長候補が迎え酒をしながら歩いた跡────ではなく、ハルヒが作ったSOS団のエンブレムだ。
「なあ、ハルヒ」
「なによ」
このマークにいい思い出はない。どうもカマドウマだのを思い出しちまうし、あの現実味のない空間にはもう行きたいとも思わない。
だけどな。
「このエンブレムはSOS団のものだろ。いくら団長とは言っても、お前一人でやるのはどうかと思うぜ」
お前は伝えたかったんじゃないのか?
SOS団で(俺からすれば無駄に)活躍してるってことを。
今がとても楽しいってことを。
それは、お前一人の物じゃないはずだぜ。
一瞬意味をとらえきれないようにきょとんと目を見開いたハルヒは、次に……ああ、やっちまった、と俺に思わせるに十分な笑顔に変わった。
その黒い笑顔は止めろ、次に何を言い出すのか完璧に予想できちまうから。
「いい心がけだわ、自ら手伝おうなんてあんたも雑用の自覚が出てきたんじゃない!」
そんな自覚はした覚えがないし金輪際するつもりもない。
「じゃあ、あたしが指示するからあんたが続き描きなさいよ!」
やっぱりそう来たか。こんな予想が当たってもちっとも嬉しくない。
かといって手伝わないなんて選択肢をハルヒが用意するわけがないのだが、一つ問題というか不安がある。
夜のグラウンドでラインカーと俺を酷使して地上絵を描く。しかもハルヒはジョン・スミスのことを思い出しているわけで、ジョン・スミスは俺である。
ハルヒは無駄に勘がいいからな。気付くんじゃないか?
「手伝わないとは言わんが」
「無駄口たたかずにさっさとやりなさい」
「いや、だからさっき言っただろうが。このエンブレムはSOS団の物だろうって」
「へ?」
「あいつらも呼ぶぞ」
俺一人こき使われるなんて冗談じゃない。あいつにも働かせてやる。朝比奈さんと長門には申し訳ないが、事情が事情だけに協力しくれるだろう。二人とも、俺がジョン・スミスであることが露見するのは好ましくないと思っているはずだ。
電話を取り出したとたんにハルヒに取り上げられたのは言うまでもない。
「ちょっと、雑用のくせに何勝手に指示出してるのよ! 集合かけるのも団長の役目なんだからね!」
偉そうに言うハルヒには、完全に100Wの笑顔が戻っていた。
「だったらこんな手間をかけさせるなよ」
「何よ、手間って」
「お前が七夕に憂鬱になる理由はわかったけどな、今更一人で解決しようなんて思うなよ」
こんなことを言うとムキになって言い返しそうなもんだが、ハルヒは意外にも素直に俺の言葉を受け止めたようだ。
「ええ、よく解ったわ。あたしはもう、」
暗闇に白く浮かぶエンブレムに瞳を固定させる。
「一人じゃない」
そうさ、よく覚えとけよ。
その地上絵が翌日学校で話題になったのは言うまでもなく、俺の予想通りSOS団全員が職員室に呼び出されて説教を喰らったのだが、ハルヒは全く悪びれずに逆に言い返していたこともほぼ既定事項通りであった。
----------
3年後、このときのハルヒの疑問が原因で俺の存在が弱くなっている(としか理解できない説明だった)と聞いたときは目眩がしたね。おかげで久しぶりの時間旅行に竹を切ったり短冊を吊したり、と忙しい時間を過ごしたわけだ。
3年後の俺、まさにハルヒから見ればジョン・スミスである。
で、あの短冊になんて書いたって? 悪いが、それは一生の禁則事項とさせてもらおう。
そうだな、ジョン・スミスから3年前のハルヒへのラブレター、ってことで納得しておいてもらえないか。
おしまい。