空白の後 その2
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 俺は懐かしい門の前で愛車を止めた。愛車は高校時代のママチャリではない。大学時代に車の免許は取得しているのだが、置き場所に困るので所有せず、原付だとちょっと急いだだけでスピード違反となり捕まったという痛い思い出があるので、今はバイクの免許を取って小型のスクーターを愛用中だ。北高へのハイキングコースをまた歩くなんてゴメンだが、こいつで登る分には問題なかった。高校時代もバイク通学が出来れば良かったのにな。

 北高はちっとも変わっちゃいなかった。建て替えの計画でもない限り建物が様変わりするわけもなく、多少古びて汚れが目立つのかもしれないが、それも夜の闇では判らない。
 門は当然閉まっていたが、俺はそんなに苦労せずに乗り越えた。明らかに不法侵入なのだから、一応は人目を気にしたが、特に見とがめられた様子はない。長門によって過去の七夕へと飛ばされたとき、あのときは中から外へと出たわけだが、セキュリティが杜撰であることは十四年変わらなかったのかと苦笑する。それだけ母校が平和だったのだろうと喜ぶべきか、とにかく今はありがたい。

 校門から校舎へと向かう石畳も相変わらずで、部室棟となっている旧校舎も何もかもが懐かしい。一体俺は朝比奈さんかららしい文書を見てから何度懐かしいと思ったかしれないが、本当に何もかもが懐かしかった。
 人の気配が全くしない校内をゆっくり歩きながら、俺はその旧校舎へと足を向けた。俺が卒業した後も文芸部室が文芸部室であるのかはわからんが、とにかく目指すはその部屋だ。

「やっぱり鍵がかかってやがる」

 旧校舎の入り口は厳重に施錠してあり、簡単に開きそうもない。おいおい朝比奈さん、どうしろって言うんだよ。窓を割って鍵を開けることも可能だろうが、俺に不法侵入に加えて器物損壊の罪状も付け加えてくれる気か。
 学生時代と違い、学校の窓を割って進入して捕まりでもしたら社会的に終わってしまうのは間違いない。どこかに鍵のかけ忘れはないかと、俺は校舎に沿って歩き出した。

「なんと、まあ」

 本当に戸締まりし損なっているうっかりな部活があるとはね。顧問に口うるさく言われなかったのか、それより宿直とかいないのか、見回るのが仕事だろうと俺が思ってもしょうがない。学生の無頓着や宿直の怠惰は俺の心配するところじゃない。開いている窓をそろそろと開き、窓枠にとりついてよじ登って出来るだけ音を立てないように室内に降り立った。
 窓は一応閉めておき、今更かと思いつつ施錠する。出るときどうせどこかの鍵を開けるのだろうが、ここより十一年、いや十四年前に使った窓の方が都合がいい。
 うっかりな部員が住人の部室を出て、俺は携帯を取り出した。早めに到着したつもりだったが、開いている窓を探してほとんど時間がなくなっている。

「後、三分」

 俺は少し焦って駆けだした。足音を立てずに廊下を走る方法があったら誰か教えてくれ。

 久しぶりではあったが、文芸部室の場所を忘れることなどなかったらしく、俺はやや息を切らして懐かしいドアの前に辿り着いた。もっともドアはどれも似たようなものだから、ことさらこのドアにだけ感慨があるわけでもないのだが。
 過去には「SOS団」と書かれた紙が貼られていたプレートは今でも「文芸部」のままで、どうやら廃部にはなっていないようだ。まさか今の学生たちが不思議探しに奔走しているわけでもないだろう。それよりここの部員も鍵をかけ忘れるうっかりものって可能性の方が低い。ここまで来て職員室に鍵を取りに行けばそれこそ宿直に見つかるかもしれない、そう思ったとき。

 ドアのノブが勝手に回った。

 そして、ドアが開いた。



 朝比奈さん(大)が呼び出したのだろうから、誰かがここに現れる可能性くらいは考えていたのだが、それでも俺は不意をつかれた。不意をつかれたのは相手も同じだったらしく、暗闇の中で数歩後退する。部室も廊下も電気はついていないが、先ほどから暗闇にいて目が慣れていたのに加え、ちょうど非常口を案内する灯りが相手の顔をわずかに照ら出していた。

 しばらくの間、互いに口をきかずに見つめ合う格好となってしまった。相手はまさかドアを開けた瞬間、いきなり俺が真ん前に立っていたとは思っていないだろうから驚くのも無理はない。俺と言えば、何を言っていいのかわからなくなっていた。
 期待していなかったと言えば嘘になる。
 だが、一方で期待しても無駄だと思ってもいた。
 もう、こいつには会えないのだろうと心のどこかで諦めてすらいた。
 この十年、一体どこで何をやっていたというのか。
 なぜ今になって、この部室に現れたのか。

 いろんな疑問や感情が頭の中を駆けめぐり、俺は忘れたかったとしても忘れられないそいつをただ眺めるしかなかった。
 暗いからといって見間違えるわけがない。
 闇の中でも輝きを保っているような大きな瞳、それを更に見開いて俺を見つめていた。肩に掛かる髪はポニーテールにはまだ短いままだ。

 十年前の記憶そのままの、涼宮ハルヒがそこにいた。


「なによ、あんた」

 先に呪縛を解いたのはハルヒの方で、俺を睨み付ける顔も記憶のままだ。

「宿直の用務員? そういやうちの学校の用務員ってどんな奴だったかしら」

 ドアを開けた瞬間に後退した分だけ歩をつめると、威嚇するような目で俺を見ている。

「別に悪いことしていたわけじゃないわ、大事なものを忘れたからちょっと取りに来ただけよ。夜中に簡単に入れたのはあたしが悪いんじゃなくてあんたの職務怠慢でしょ!」

 凛とした声、少し早口にまくし立てる口調。久しぶりに会ったってのにずいぶんな挨拶だが、俺の耳には心地よく響いた。ハルヒから見れば俺は非常灯を背後にしているので、顔の判別がつかないのだろうが、用務員と勘違いして言い訳しているその内容すら今の俺にはどうしようもないほど懐かしく思える。
 俺が感嘆に浸っている間にハルヒはさっさと撤退するのがいいと考えたらしく、俺を押しのけて部室を出た。

「あ……」

 俺を赤の他人と認識したハルヒは後も振り返らずに廊下を歩き出した。待て、と言おうとしたが声がのどに張り付いて上手く出てこない。

 ハルヒの背中が遠ざかっていく。
 ダメだ。行くな。畜生、声が出ねえ。

 また、見失うわけにはいかないんだ。
 追いかけろ。

 ガクガクと震える足を激励し、俺はおぼつかない足取りでハルヒの後を追った。
 やっと、やっと会えたってのに冗談じゃねえ。

 体を動かすことによって喉も解放されたらしい。喉に貼り付いたのを無理矢理剥がしたような声で、ようやく俺はハルヒに声を掛けた。

「待ってくれ」

 ハルヒは俺の声にハッとしたように振り返る。唾液で乾ききった喉を潤し、再び俺は口を開いた。

「俺を覚えているよな?」

 廊下の窓からの明かりで、さっきよりハルヒの顔がはっきり見える。
 果たしてこの十年の間に何が起こっていたのかはわからない。だからこそ、不安があった。以前ハルヒを失ったときには俺以外の全員が記憶を書き換えられていた。そして二度目にハルヒが消えたとき、その事実は誰もが認識している。だから世界はおかしくなってなどいないはずだが、消えた当のハルヒはどうなんだ? もしかして記憶を書き換えたりしていないか、それとも失っているのかもしれない。
 ハルヒは怪訝そうに俺を見ていたが、やがてさっきドアを開けた直後のように目を見開いた。
 その表情が驚愕を表していることは間違いなく、少し開かれた口が何か言葉を紡ごうとして、そのまま止まった。

「おい?」

 突然ハルヒを襲った衝撃に俺が戸惑いながら、いくぶんマシになった足取りでようやくハルヒに追いついた。

 ハルヒはまだ茫然としたまま俺を見つめていたが、やがて一言、呟いた。

「……ジョン?」

 なんだって!?



 聞き間違いだよな? 確かに俺はジョン・スミスでもあるわけだが、高校時代を共に過ごした「キョン」よりも「ジョン」を先に思い出す理由はないはずだ。いや、まさか、いつかのようにジョンの記憶はあるけどキョンの記憶はない、って言うんじゃないだろうな。
 一体何を言い出すんだ、と言おうとして俺は別の気配に気がついた。部室から離れて階段の近くまで来ていたのだが、階下で物音がしたような気がした。

「ちょっと待ってくれ」

 自然と小声になるのは当たり前で、誤解を訂正したいのは山々だが、まずは見つからないようにするのが先だ。
 俺は階段からそっと階下の様子を窺い、どうやら足音がするのは間違いないと判断すると、まだ呆けているハルヒに言った。

「宿直が見回りに来たようだ。一旦部室に隠れるぞ」
「えっ……?」

 俺が言ったことを理解出来ない様子で聞き返す声が思いの外大きく、俺は慌てていった。

「静かにしろ、見つかるとまずい。一旦戻ろう」

 まだ動こうとしないハルヒの手を取り部室の方へと歩き出すと、大人しくついてきた。先ほど閉めてすらいないドアの中に滑り込み、ドアを閉める寸前に階段の方から階上を照らす懐中電灯の明かりがちらちらと見えた。俺たちの声が聞こえたかもしれない。
 出来るだけそっと鍵をかけると、そのまま座り込んで息を潜める。ハルヒも事態を理解したようで、しゃべろうとはしなかった。間近にハルヒの息づかいを感じながら、近づいてくる足音に体をこわばらせた。
 足音は一番端にある文芸部室の前で止まると、懐中電灯がガラス越しに中を照らした。ドアの前に座っているのだから人影が見えるわけもないだろうが、緊張で心臓がバクバクいうのがハルヒに聞こえやしないかと冷や冷やする。
 やがて懐中電灯は窓から消え、足音も次第に遠ざかっていったところを見ると、俺たちには気がつかなかったようだ。

「ふーっ」

 一気に力が抜けて、俺はハルヒの手を取ったまま、緊張に任せて力一杯握っていたことに気がついた。

「わ、悪い」

 慌てて手を離したが、どうにも気まずい。だいたい何を話せばいいのかもわからん。目の前にいるのがハルヒであることは間違いないのだが、ハルヒは俺を解っているのか。どうもお互いの認識に齟齬があるような気がするのは気のせいじゃない。

 茫然から立ち直ったハルヒはそんな俺の気まずさなど知ったこっちゃなく、足音が去るや否や立ち上がって窓際の方に歩き出した。文芸部室は俺たちが陣取っていた頃とは様変わりして、むしろそれ以前に戻ったように物がなくなっている。
 ハルヒは窓の外をしばらく眺めてから、振り返って部室を見回した。

「電気点けちゃダメよね」

 明るいところで部室を見たかったのだろうが、そんなことしたら宿直の奴が飛んでくることは間違いない。しばらくすれば仮眠を取るだろうから、その頃にそっと抜け出すのが吉だろう。

「おかしいわね」

 ハルヒは今度は早足でドアに向かうと、俺が止めるまでもなくドアを開けやがった。大きな音を立てるな。

「やっぱり文芸部って書いてあるわ。窓から見た景色も同じだと思うし。でも……」

 ハルヒはドアを閉めて再び部室を振り返る。

「何もないじゃない。団長机のパソコンはどうしたのよ。冷蔵庫は? ポットもコンロもないわ。それにみくるちゃんの衣装はどこ?」

 
 ハルヒの視線が俺に止まった。尋問に取りかかる検察官みたいな顔つきになってやがる。

「ねえ、あんたは知っているんでしょ? だからここにいるのよね」

 何をだ、とは聞き返さなかった。ハルヒはこの文芸部室が、未だにSOS団の根城だと思っている。
 ハルヒが声に出している疑問、朝比奈さんが今頃になって指令文書を寄越した理由、そして何より今目の前にいる“俺の記憶の中そのもの”なハルヒ。十年の時間など微塵も感じさせない、高校生のままとしか思えないハルヒ。
 俺は何も知っちゃいないが、推測するには十分な材料だ。
 この十年間お前は何をしていたんだ、という疑問は俺の中には最早ない。
 そうじゃない。

 ハルヒは、この十年間、どこにも存在していなかったんだ。


 俺は一つ大きな息を吐いた。ハルヒはこの事実を知らない。ついさっきまで自宅にいたはずで、睡眠中だったと考えるのが妥当だ。おれだってそうだったんだからな。
 そして、次の瞬間には十年後の部室にいたってことになる。
 このハルヒに起こっていることをどう話せばいいんだ。俺がハルヒから見たら十年後の俺だと認識してくれるかどうかも不安がある。

 少し思考を巡らせてから、俺は口を開いた。

「ハルヒ」

 口に出して俺はまた感慨にふけりそうになった。この名前を本人に向かって呼びかけるのも十年ぶりなんだ。だが、今はそんな場合じゃない。

 当のハルヒはいきなり名前を呼ばれて怪訝な顔をした。怒り出さないのは俺が事情を説明できる唯一の人間だと思っているのか、それともさっきの聞き間違いとは(思いたいが)思えない匿名希望な仮名の持ち主が俺だと本気で信じているのかのどちらかだろう。

「説明する前に、何故お前がここにいるのか教えてくれ」

 ハルヒの最後の消息は自宅だった。そして地震が起こり、消えてしまったのだが、現れる先が自宅じゃないのは何故だ?
 俺の質問にハルヒは首をかしげるだけだった。

「わからないわ」
「わからない?」
「そうよ。あたしは家で寝ていたはずなのに、気がついたらこの部屋にいたのよ。最初は暗くてよく解らなかったけど」
 ハルヒはまた室内を見回した。
「部室みたいだけど、SOS団の部室じゃないから、どこのか確認しようとしたのよ。ドアを開けて。そうしたら」

 ハルヒは俺をまっすぐに見つめた。

「そこにあんたが立っていたってわけ。さすがにびっくりしたわよ、誰かいるとは思わなかったんだもん」

 だいたい想像通りだった。家で寝ていたのは十年前の地震直前。ハルヒの時間は十年前から現在に直結している。

「で、あんたは? なんでここにいるの? あたしがここにいることを知っていたの? それから……」

 次の質問はさすがに予想していなかったので、俺を面食らわせるのに十分だった。


「もしかして、キョンの親戚? 確かお兄さんはいなかったはずだけど」


 さっきハルヒが「ジョン」と言ったのはやっぱり聞き間違いだったか、と少し安心するが、しかし俺の親戚だって?
 もし俺が初めて朝比奈さん(大)に会ったとき、なんの予備知識もなかったらどう思ったか、なんて仮定するまでもない。まだ未来人なんて半信半疑だった俺の前に現れたときにはやはり朝比奈さんのお姉さんだと思ったくらいだから、今が十年前だと思いこんでいるハルヒが俺を見てそう思うのも考えてみれば当たり前だ。
 しかしハルヒ、あまり説明するのをややこしくするのはやめてくれ。

「いや、違う」

 回らない頭で説明順序を構築しながら、俺は何とかそう言った。

「あのな、ハルヒ」
「なんであたしの名前知っているのよ」

 だから話し始める前から話の腰を折るようなマネはするな。

「とりあえず、信じなくてもいいから話を聞け。証拠は後でいくらでも見せてやる」


 ハルヒに超常現象を知られてはいけない。それは十年前の俺たちの約束事だった。
 だが、今はそれどころではない。このままハルヒを家に帰したところで、十年分歳を取った両親が待っていて、十年ぶりの娘の出現に喜びのあまり卒倒しかねない。とにかく現状を認識させなければ。

「まず、今日は何年何月何日かわかるか?」
「そりゃ解るわよ」

 ハルヒはラッキーナンバーな月日である五節句の一日に年を付け加えてすらすらと答えた。やっぱり時間軸が十年ずれてやがる。

「そうじゃないんだ」

 俺は携帯を取り出して、日付と時間が書いてある液晶画面を見せた。日付がいつの間にか八日になっているのはいいとして、問題は西暦で下二桁だけ示してある数字だった。ハルヒはまず携帯そのものに興味を示した。別に珍しい型ではないが、そういや十年前の携帯ってどの程度の機能がついていたっけ?

「へえ、これ最近出た機種? なんか超小型PCって感じがしなくもないわね」
「いや、携帯じゃなくて見るのはこっちだ」

 俺が西暦部分を示すと、まあ予想はしていたんだが、ハルヒは変な奴を見る目で俺を見た。

「時計を十分進めているならわかるけど、年を十年進める意味がわからないわ」
「進めているんじゃねえよ。それが今の年だ」

 ハルヒは可哀相な人を見るような笑顔を浮かべた。こいつ信じてねえな。昔から変わらず根っこの部分は常識に囚われているらしい。いや、昔からも何も、俺から見たら昔のハルヒそのものか。

「携帯じゃ証拠にならんことくらいはわかっているさ。もう少ししたら学校を抜け出そう。途中のコンビニに新聞があるだろうから、それで確認すればいい」

 十四年前の俺の行動と全く同じなのが泣けてくるね。あのときの行動のおかげで、俺はハルヒに現状を信じさせる手間が省けるとは思っても見なかったな。


 ハルヒはまだしばらく携帯の画面と俺の顔を見比べていた。不審そうな表情は変わらないが、わずかに呼吸が荒くなっている気がする。やがて携帯に飽きたのか、俺の顔をまじまじと覗き込んできたまま動かなくなったのは、一応納得したってことでいいのか。
 俺がそう思っている間も俺の顔の何が面白いのか乏しい灯りの中で熱心に観察していやがったが、やがて目を逸らして立ち上がった。

「帰るわ」

 って、だからちょっと待て!

「帰るってどこへだよ」
「自分の家に決まってるでしょ! だいたい家で寝ていたのになんでこんなところにいるのかしら。わけわかんない」

 おいおいおい。お前は俺の言うことなんか一言も信じちゃいないってことかよ。
 そんな心中のツッコミも虚しく、ハルヒはそこにはなんの執着もないというように部屋を出ると階段へ向かって歩き出した。後を追うしかない。このまま家へ帰すわけにもいかないんだ。
 ふとハルヒが裸足のままなのに気付く。Tシャツに短パンというラフな服装といい、家で寝ていたってことを疑う余地はないが、しかし裸足のまま帰る気かね。

 過去の俺が更に過去に飛ばされて脱出したときのような神経の使い方など全くせず、昼間の学校を歩くのと同じように廊下の真ん中を歩いていくのはさすがであるが、さっきのこともあるので俺がその分神経をすり減らさねばならなかった。
 だが、ハルヒが見つかるわけはないと思っているのか、とにかく何事もなく入り口に辿り着く。ハルヒは今はどうだか知らないが、昔は二年五組だった下駄箱がある辺りを迷わずめざし、たぶん十年前にはハルヒのだったであろう下駄箱を開けた。

「……あたしのじゃないわ」

 言葉の響きに驚きはあまりない。ハルヒは多少なりとも俺の言うことに納得しているのかもしれない。だが簡単に信じられないのだろう。信じたくないのかもしれない。
 誰の物とも解らない上履きをしばらく眺めていたハルヒは、やがてそれを床に放るように置くと悪びれた様子もなく履きだした。
 止めるべきかとも思ったが、外を裸足で歩くのは嫌だろうし危険でもある。すまん、後で必ず返しにくるからな、とハルヒの代わりに心の中で謝っておこう。
 昇降口のドアは学生が勝手に開閉できないように、解錠にも鍵が必要のなのも昔と同じで、ハルヒは遠慮なくドアをガタガタならして文句を言いやがった。

「ちょっと、なんで開かないのよ。中から開けられないなんて意味ないじゃない!」

 だから大きな音を立てるな! それに不法侵入者が偉そうに言うことじゃない。

「そっちの窓から出られるぜ」

 俺の時間軸からすれば十一年前の記憶が昨日のことのように思い出される。あのとき抜け出したのもこの窓だった。
 ハルヒはまた俺をじろりと睨むと、それでも俺の指し示した窓へと向かっていった。
 ふと携帯を確認すると、時刻は午前一時過ぎだった。やれやれ、明日も仕事だっていうのに。布団が恋しいぜ。


 湿気を含んだ空気も相変わらずだが、少し強めに吹いてくる風が涼しい。
 ハルヒは校門へ向かう足取りも全く躊躇する様子がなく、その足取りのまま校門を軽々と乗り越えた。そのまま俺を待たずに坂を下り出すので、俺は慌ててポケットに突っ込んでおいたバイクの鍵を取り出した。

「なによ、いいもの持っているじゃない。先に言いなさいよ」

 エンジン音に気付いて戻ってきたハルヒが言う文句もまったく懐かしい。だが、勝手に歩き出したくせに無茶言うな。
 しかし、ヘルメットは一つしかない。この坂をバイクを押しつつ歩いて降りるのはなかなか大変だし、かといってハルヒだけ歩かせるのもずっと文句を言い続けられそうで想像しただけでげんなりする。
 ここは道交法的に頂けないが、ハルヒにヘルメットを被らせて、俺はノーヘルで行くしかない。

「なんで? あんたが被っとけば?」

 遠慮しているわけじゃなく暑いし鬱陶しいだけかもしれないが、ともかくハルヒはあっさり辞退しやがる。

「それじゃ俺が困る。被っとけ」

 わざわざ知り合いの事故話を出すまでもなく万が一ってこともある。
 ハルヒは渋々といった表情のままヘルメットを受け取った。じゃあ、後は。

「警察がこの辺見回っていないように祈っていてくれ」

 何に祈るかはしらんが、ハルヒがそう願っていてくれるならどんな神様に祈るより御利益はあるに違いない。


 タンデムなんてほとんどしたことがないうえ、後ろに乗っているのはハルヒである。
 後部座席を意識しちまうのは仕方がないので、俺はひたすらこの暑いのに後ろに人を乗せるのはあまりいいものじゃない、と自分に言い聞かせながらバイクを走らせた。

 まず寄ったのは坂の途中にあるコンビニだった。俺が以前やったように、そして先ほどハルヒに言ったとおりに、新聞があれば今が何年か確認できるからだ。
 ハルヒも覚えていたようで、バイクを止めるや否や跳ねるように降りると、メットを俺に投げて寄越してコンビニの中へとずかずかと入っていた。

 俺がバイクを止めて後から入ったときには、すでにレジカウンターの前にあるラックから新聞を一部引き抜いてにらめっこしているところだった。眉間に皺を寄せて考え込んだ表情をしているが、そういやあのときの俺もハタから見ればこんな感じだったのか。
 視線を新聞に固定しているハルヒを、俺は黙って眺めていた。ようやく明るいところで観察する機会を得たのだが、やはり考えたとおりどう見ても俺と同じ年には見えない。すでに二十歳を超えている妹は今でも童顔で二十代には見えないと言われるが、その妹とも違って特有の幼さが残っているように見える。俺が年を取った分、むしろ昔より若く見えてしまうくらいだ。

 やがてハルヒはふぅ、と一つ大きく息を吐き、ようやく視線を上げた。俺と目が合うと睨めつけるように凝視し、やがて手にしていた新聞も投げて寄越すと、来たときと同様ずかずかと店から出ちまった。何でもかんでも俺に投げて寄越すのはなんか理由があるのか?
 店員が胡散臭そうな目で俺を見ているので、俺はやむを得ず要りもしないその新聞の代金を慌てて払い出入り口に向かう。だが焦る必要はなかったらしく、ガラス越しに俺のバイクにもたれるように立っているハルヒの姿が目に入った。

 しかし、と自動ドアを通過しながら俺は考える。
 これからどうしようか? まだ家に帰すわけにはいかない。今までどうしていたか、誰に聞かれても答えられない状況ではハルヒ自身が困るだろう。これまでそうだったように、無茶な状況でも上手く切り抜けてしまうのかもしれないが、やはりその前に少し考えた方がいいだろう。
 考えごとをしながら動かす足はどうにも鈍かったが、焦れたハルヒから怒声が飛んでくることを十年ぶりに予想するのはちょっと難しかった。

「早く来なさいよ、キョン!」

 ちゃんと自己紹介していないのに、ハルヒは俺を認識したらしい。
 それにしても、「キョン」か。そう呼ばれるのも何年ぶりだろう。

 当時全く気に入らなかったあだ名なのに、今ハルヒの声で呼ばれるのは妙に嬉しかった。




その3へ