空白の後 その5
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「例の手紙はお持ちでしょうか」
 重苦しい空気を替えようとしたのか、古泉は軽い調子で俺に話しかけた。
 朝比奈さんの前に出していいものか少しだけ考えてから、結局俺はそれを取りだした。朝比奈さんが自分の未来についてここまで気がついている以上、隠さなくても大丈夫だろう。古泉もそう判断したからこそ、あえて言ったに違いない。

 俺が取り出した短い手紙……というより指示のメモに、二人は身を乗り出した。
 朝比奈さんは以前、バレンタインの時期にやったお遣いごっこで見覚えがあるはずだが、ただ首をかしげてみつめるだけだ。
 むしろ何か心にひっかかりでもあるように眉間に皺を寄せて考え込んだのは古泉である。
 昔、何通かもらった朝比奈さん(大)からの手紙をこいつに見せたことはあったっけか?

「どうした、古泉」
 声をかけると、すぐに元の微笑みを取り戻して俺に視線を向けた。
「それが、この筆跡なんですが」

 言われて俺ももう一度手紙に目を落とし、そして今更としか言いようもないが何故今まで気がつかなかったのか、という事実にまさに今更気がついた。
「見覚えがあるような気がするのですが、いつ、どこでかを思い出せないもので……」

 見覚えがある? 俺は思い出せない。
 だが、最初から気付くべきだった。

 これは、朝比奈さん(大)の筆跡ではない。

 学生時代と違い、携帯メールや印刷した文書の文字ばかりを見ているのだから、いちいち誰かの筆跡なんか覚えちゃいない。
 だが、ハルヒの巻き起こすあれこれに関わることとなると、話は全く別だ。
 俺は古泉の意外に乱雑な文字も、長門のそれこそ印刷したのか?と聞きたくなるような筆致も、朝比奈さんの丁寧な丸っこい字も、もちろんハルヒの勢いのいい筆跡だって覚えている。
 そして、今この手紙に書かれている短い文は、その誰のものとも違っていたのだった。
「見たことがあるような気がするって?」
 俺が知らないのに古泉に覚えがあるってのは、これは『機関』に関係があるのか?
「いえ……思い出せません」
 古泉は軽く首を横にふって言った。
「見たとしてもずいぶん前だと思います。そう、たとえば十年くらい前かもしれません」
 十年前、と今の状況では意味ありげな言葉を言ったからには何か心当たりがあるのだろうか。
 だとすると、俺も見覚えがあっていいようなものだが。

「朝比奈さんは見覚えありますか」
 十年前に繋がっているとすると、朝比奈さんだって覚えているかもしれないのだが、
「うーん」
 と魅力的な眉を寄せて考えたあげく、
「ごめんなさい、わからないです」
 と、吐息とともにもらしただけだった。

「なるほど、僕の記憶違いかもしれませんね」
 古泉は肩をすくめると、いつもの笑顔にもどって言った。

「では、あなたを涼宮さんの元へ導いた謎の手紙は、いつ、誰が書いたものなのでしょう」
 目の前の朝比奈さんに心当たりがない以上、俺に解るわけもない。
 それが解ったところで、ハルヒが元の時間に戻れるという保証なんてない。
 ……?

「どうかしましたか?」
 思考の過程である点に気づき、すでに手紙から離れてしまった俺に、古泉が声を掛けた。
「あ、いや……」
 適当な誤魔化しを口にして、俺は話題を変え、たいした収穫もないままその日の会合を終えた。


 一人、昨日までは感じられなかった空虚感が漂う家に帰ってから、さっきの手紙の件で思いついちまった事実と改めて対峙してみる。

 十年前、SOS団にとってイレギュラーなできごとが起きたとき、それぞれがそれぞれの立場で「正常に」戻そうとしていた。
 「正常」ってのが世間一般とは違っていたとはいえ、SOS団がSOS団として保たれること、それが一番大事だと俺たちは知っていた。
 そして十年間、SOS団は団長不在というイレギュラーな状態を続けていたわけだ。
 それを正常な状態にしなければならない、つまりハルヒを十年前に帰さなければならない。

 ハルヒが十年前に帰る――――再び、俺の前から消える。

「冗談じゃねえ」
 数時間前までここにいた存在の大きさを、一人になっただけで空き家に間借りしているような寂寥感が漂う部屋が教えてくれる。

 もう二度と、手放してたまるかよ。


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 さて、俺は会社向けに病気をでっち上げてしばらく病院通いをするって言い訳をこしらえた。
 当分の間、毎日定時ダッシュできるってことは手当も下がるのだが、今はそんなことを言っている場合じゃない。
 というわけでハルヒのために仕事を休んだ翌日、俺は一応出勤した物の仕事が手につくわけもなく、定時になるやいなや逃げ出す兎のように会社を飛び出して、長門宅へと直行した。


 脱兎の勢いもただの人間では意味がなかったようで、俺が長門のマンションに到着したときにはすでに俺以外の全員が揃っていた。
 最初から出し抜こうなどとは考えていなかったのでどうでもいいのだが、一番近所にいる俺が最後ってことは、俺以外の全員が仕事を休んだに違いない。

 そして台風どころか星雲規模で渦巻くできごとの中心人物が、俺を見るなりこれまた懐かしいセリフで出迎えやがった。

「遅いわよ! あんた今まで何してたのよ、キョン」
 何をしていたとはずいぶんな挨拶だ。別に遊んでいたわけじゃない、社会人としての義務をまっとうしていただけだ。
「あんた以外全員、今日はここにいたわよ。社会人の義務だなんて、自己正当化にしてもダメだわ。全然ダメ」
 何が全然ダメなんだ。一応給料をもらっている身としては、そうそう長期休暇を取るわけにもいかないんだよ。

 ハルヒはなおも言葉を尽くして文句を言うべきか悩んだような顔をしたが、すぐに切り替えたのは時間の無駄だと悟ったのか。
「ま、いいわ。遅刻は罰金って決まってるんだから、ちゃんと付けておくわよ」
 閻魔帳でも持っているんじゃないだろうな。十年前から持ってきたのか?
「ともかく、昨日の続きを話さなきゃならないんだから! ぼさっとしてないでそこに座りなさい!」

 そう言われて俺は座れと言われたテーブルの端のあたりに腰を据え、すでに座している古泉と長門にあらためて目をやった。朝比奈さんは長門の台所でお茶を入れているらしい。このマンションの主はお客さんを働かさない主義かと思ったんだが、おそらくハルヒの命令だろう。

 昨日の続きといわれて、俺はここで話したことよりも喫茶店で古泉や朝比奈さんと話したことを考えていた。
 朝比奈さんとは別の未来。
 そして、あの手紙。
 誰のものとも思い出せない、しかし古泉には心当たりがあるのかもしれない筆跡は、一晩考えてもやはり知らないとしか言えなかった。
 長門の意見も聞いてみたいもんだが、今は無理だ。

 朝比奈さんがお茶の乗ったお盆を捧げつつ戻って来たので、ハルヒはようやく、
「でもさ」
 と、否定的にはじめやがった。
「今日話した感じでは難しそうなのよね」
「何の話だ」
 主語は「私は」あるいは「我々は」であるとして、あたりまえのように目的語が抜けている。
 俺の質問にハルヒは夏だというのに真冬の夜中よりも冷たい目を俺にむけた。
「だから昨日の続きって言ってるでしょ! もう忘れたわけ? あんた専用の忘却曲線があるっていうなら、あたしが書き直してあげるわよ」
 んなもんに専用なんてあるか。いや、覚えてるさ。タイムマシンの作り方、だっけか?
「それよ、それ」
 十年前と変わらない不敵な笑顔を浮かべてそう言ったはいいが、またパズルが解けない子供のような表情に戻った。
「だから、難しいみたいなのよね」
 そりゃ簡単なわけはないだろう。簡単に作れるなら、とっくに誰かが完成させていてもおかしくはない。遠い未来に完成をみるようではあるが、その技術を現代に教えるのは禁則事項で間違いないだろうからな。
 しかし、ハルヒが難しいと言ったからには理由があるはずだ。
 俺の疑問を解っているかのように、ハルヒは話を続けた。

「地震があったって言ってたわよね。あたしは知らないんだけど、だからこそそれが原因と考えてもいいわ。あたし、午前中に図書館に行って調べてみたのよ。とくにこれと言った記事はなかったけどさ、地震があった時間はまさにあたしがタイムスリップした時間みたいだし、やっぱり関係ありそうよね」
 そこまでいつ息継ぎしたんだと聞きたくなる勢いで言うと、続きを促す視線を長門に向けた。
「どれくらいのエネルギーが必要なんだっけ?」
「およそ三十億キロJ」
 ジュールとか、それこそ高校時代にしか使わなかった単位を言われてもピンとこない。相当なエネルギーなんだろうな、それは。
「平易な表現を用いれば、1945年、広島に投下されたウラン235原子爆弾が放出したエネルギーの約半分に相当する」

 なかなか際どい例えを出してくれたもんだが、確かにわかりやすい。原爆半分か。
「つまり、それだけのエネルギーを得られなければ、時間移動は難しいということですね」
 その程度なら俺にも理解可能だが、長門はなんとなく納得していないような感情を瞳に映し出しているような気がした。
 お茶の給仕を終えてハルヒの傍らに座り込んでいる朝比奈さんは、心なしか青ざめているだけで何も言わない。そういえば、TPDDを使う際、エネルギーはどう供給されているのだろうか。時間平面を破壊する、だっけ。相当なエネルギーを食いそうなもんだが、やはりそこは禁則事項なのだろう。
 自分の未来を失ったというのに、朝比奈さんの枷は外れる気配がないというのもおかしな話だ。

 だから、難しいのか。

 そして、ハルヒが飯の支度をしている間に皿の用意をしながら、長門が今の話では不十分だと説明してくれた。
「実際には、当時の地震のマグニチュードは8.7と推定できる」
 ああ、正確な数字は覚えていないが、それくらいでかかったはずだってのは覚えている。
「あなたにも理解可能なように、有効数字一桁で説明する」
 ……なんかバカにされた気がするのだが、気のせいだよな? という俺の素朴な哀愁漂う疑問を無視して、長門は続けた。
「マグニチュードが1増えると、エネルギーは30倍になる。当時の地震がマグニチュード6だと仮定し、実際の地震が9だとすると、エネルギーは2万7千倍」
 2万7千倍? そこだけ有効数字が……って、それはどうでもいい、つまり最初の地震が原爆半分のエネルギーだとすると、本来は1万3千5百個分だ。
「途方もねえな」
 それがどの程度のエネルギーかなんて想像もできねえ。
 だが、単純に考えて、ハルヒは原爆(13500-1/2)個分のエネルギーを使って時間移動したといわけか。
「それだけのエネルギーを再び得たと仮定しても」
 皿をならべ終えた長門は、微動だにしない正座のままで話を続けた。
「涼宮ハルヒの情報改変能力がなければ、異時空間同士に連結を穿つことは不可能」