涙の効用
短編 | 編集

護衛艦あしがら様からお題を頂きました。
お題: 思わず泣いてしまうキョン、それをやさしく慰めてあげるハルヒ

 寝不足と極度の疲労感、そして若干の安心感とともに、俺は重い足にむち打って自転車を家へと走らせていた。疲れた、今考えられるのはそれだけで、正直布団が恋しい。俺と同じように一晩を病院で明かした母親はまだ父親に付き添っていると言い、同じく妹は熟睡してしまったので、病院側が厚意でベッドを貸してくれている。まだ起きている俺がその厚意に甘えるわけにも行かない。

 土曜日、例によって例の如く喫茶店で奢らされた挙げ句不思議探索と称する町歩きに付き合わされた俺は、その帰りに父親が事故にあったと聞かされ、そのまま病院に向かった。
 不安やある種の恐怖心と闘う気力もないまま一晩を病院で明かした俺は、医者の半分は専門用語でよく分からない説明を寝不足の頭で聞きながら、取りあえず峠は越したこと、後遺症の心配はまだ完全になくなっていないが命に別状はないだろうと言うことだけを何とか理解し、父親を医者と母親に任せて一旦帰宅することにしたわけだ。
 普段、父親についてたいして意識することはない。
 家族というものは生まれたときから常にそばにあるわけであって、そりゃ人間は必ずいつかは死ぬのだから、順番からいっていつかは俺だって親を見送るときが来るだろうことは知ってはいる。だが、今回本気で実感したことは、俺はわかっちゃいなかった。ちっとも理解しちゃいなかった。その「いつか」が本当にやって来るってことを、だ。俺はまだ高校生で父親は働き盛り、じーさんばーさんだって健在で、人の死というものを身近に感じる機会なんかまったくと言っていいほどなかったわけだ。
 命に別状はない。だが、今回の出来事は俺に家族の死というものについて否応なしに考えさせることとなってしまった。


 さっきも述べたように俺は極度に疲れていた。考えるのは後回しにして早く寝たい、それが今の思考のほとんどを支配していたわけであって、家に帰り着いたとたんにこいつの顔を見ることになるとは思っても見なかった。

「ちょっとキョン! あんた携帯は電源入ってないみたいだし、家に電話しても出ないし、一体どこに行っていたのよ!」
 何でハルヒが俺の家の前にいるんだ。不思議探索は昨日で終わりだろ、今日は何も予定はなかったはずだ。ああ、でもそれも考えるのも面倒だ。
「ちょっと親父が事故でな。昨日は家族全員病院にいたんだよ。それで携帯も切ってたわけだ」
 俺がそう言うと、ハルヒは怒っている顔を驚いている表情に変えた。さすがに俺の言うことは予想外だったんだろう。
「つーわけでついでだから伝えておくが、しばらくSOS団の活動も休ませてもらうからな。親父の容態が安定するまでは病院に行きたいから」
「大丈夫なの?」
 先ほどの勢いはどこへやら、打って変わって心配そうな表情で聞いてくる。お前も俺の家族の心配をしてくれるのか。
「ああ、峠は越したらしい。取りあえず死ぬことはないってさ」
 何故か人ごとのような話し方になってしまうが、こうでもしないとどうも落ち込んでしまいそうだから仕方がない。要らん心配もかけたくないしな。
 ハルヒはそう、と言って息をつくと俺を睨み付けて思った通りのことを言い出しやがった。
「せっかく来たんだからお茶くらい淹れなさいよ」
 いつもの俺だったら反論していたところだろう。だが、今日はそんな気分になれなかったし、わざわざ反論したところで時間が長引くだけで、早く寝たいってのもあって素直に承諾した。せっかくあっさり承諾してやったっていうのに、ハルヒは不満そうな顔をしてやがる。何でだよ。
 とにかくさっさとお茶でも何でも飲ませて帰ってもらうべく俺はハルヒを家にあげた。

「そういや何か用があったのか? 電話に出ないからってわざわざ家まで来るなんてさ」
 ハルヒを居間のソファで待たせてお茶を淹れる。残念ながら朝比奈さんのお茶とは比ぶべくもないほど味気ないお茶を差し出しながらふと思い出した疑問を聞いてみた。こいつのことだから業を煮やしたってところか。ハルヒはなぜか少し黙っていたが、やがて視線をそらして言うには、
「だって、本当に全然電話に出ないから、あんたの家に異世界への扉でも開いて巻き込まれたかと思ったのよ! だったらこれは確認しなきゃと思っただけよ、本当にそれだけなんだから!」
 ってどっから突っ込めばいいのかね。俺は思わず吹き出してしまった。別にハルヒの発言にウケたわけではない。いかにもハルヒの言い出しそうなことだし、そこに俺にとっての笑いの要素はないのだが、それでも笑わずにいられなかった。
「何笑ってんのよ!」
 ハルヒは怒るがこれが笑わずにいられるか? 結局父親が生死の境を彷徨おうと、俺が一晩心配して夜を明かそうと俺の周りでは当たり前の日常が過ぎていっているわけで、ハルヒだってまあ当たり前とは違うがそこにあるのはいつもと変わりない毎日であったわけだ。俺がいつも非日常と思っていることとは全然別の非日常、出来れば一生関わりたくなかった「家族の事故」なんてことに直面しようが、そんなことは関係なく世界はいつも通りなわけだ。
 いつかハルヒが言ったっけな。「あんたさ、自分がこの地球でどれほどちっぽけな存在なのか自覚したことある?」とか何とか。ああ、今自覚したよ。ほんとにちっぽけで無力な存在だよ。俺や俺の家族が経験していることなんて何の意味もなく世界は回っていくんだ。俺はその歯車にすらなれやしない。

「キョン? ちょっと、どうしたのよ」
 あまりにも笑いすぎたのか、ハルヒの声は怒りから心配に変わってきた。頭がいかれたとでも思ったのか。確かにいかれてるかもしれないな。
「いや、悪い」
 何とか呼吸を整えてから、一言謝った。会話の流れからするとさすがに失礼かもしれない。ハルヒ相手にそんなこと気にすること自体、俺はどうかしているのかもしれないが。
 それだけに、正直これ以上誰かと話をするのが辛くなってきた。
「お前はもう帰れよ」
「嫌よ」
 即答かよ。
「頼むから帰ってくれ」
 俺も何だかよく分からないがいっぱいいっぱいなんだよ。また意味もなく笑い出しそうな衝動に襲われるし、かといってちっとも笑いたくないような気分でもある。
 この頑固な団長をどう説得してくれようか。
「嫌だって言ってるでしょ」

 あまりに突然で一瞬何が起こったのかわからなかった。突然に感じる温もり、暖かさ。雑然とした頭で、俺はまずそれだけを感じていた。
「今のあんたを置いて帰れるわけないでしょ」
 そう言われて始めて俺はハルヒに抱きしめられていることに気がついた。
「おい、ハルヒ?」
 ただでさえ頭が飽和状態だったってのに、あまりに意外すぎる出来事にどうしていいか分からない。どうなってるんだ? どういうことだ?
「……泣きなさいよ」
「え?」
「いいから泣きなさいよ。あんたさっきから泣きそうな顔してるのに無理してんじゃないわよ」
 何言ってるんだよ、俺は別に泣きたくなんか……。
 そう言いかけて、言えなかった。俺の頬に何かが伝っていることに気がついて、慌ててそれを拭う。
「我慢しなくていいわよ。そりゃ、SOS団の団員がいつでもすぐ泣くなんてみくるちゃんくらいしか許せるわけないけど、誰だって泣きたいときはあるわ。今は泣いていいわよ、あたしが許可するから」
 そう言われて始めて気がついた。俺は泣きたかったのか。別に父親が死んだってわけじゃないってのに情けねぇ。だけどさっきから妙に渇いていた心に、ハルヒの言葉が染み込んだ。昨日からこっちテンパっていた俺は、気持ちの整理をつけたかったのかもしれない。
「……すまんな」
 いつも少しは意地をはるのだが、今日ばかりはその気力がなかった。いや、ただ単に今日は素直になりたかっただけなのか。自分でもよくわからない。
 俺はハルヒに抱かれたまま声を殺して泣いた。
 本当に情けねえ。
 何で泣きたいのか、何で泣いてるのか、そんなこともよく分からない。ただ気持ちが爆発しそうで、もしハルヒがいなかったら俺は泣くことも出来ず、ただイライラした気持ちを漫然と抱えていたのかもしれない。
 そんな俺をハルヒは責めることもなく抱きしめてくれていた。
「キョン、大丈夫だから」
 子供をあやすようにそう言ってくれる。普段なら子供扱いするなと言いたくなるような口調だが、今はただありがたい。
 そのままハルヒの暖かさと普段は見せない優しさに包まれて俺は────


「起きた?」
 一瞬状況がつかめずに目をしばたいた。目の前に俺を見下ろすハルヒの顔。って、俺、寝てた?
 慌てて起きあがり、状況を把握する。どうやら俺はあのまま眠ってしまったらしく、ハルヒの膝に…………って、膝枕かよ! 何やってんだ俺!
「あ、いや、その、すまん!」
 うわ、何だかいろんな意味で照れくさい。いくら寝不足だからってこの年で文字通りの泣き寝入りなんてものをしちまったうえに、よりによってハルヒに膝枕させていたなんて、俺はいったいどうすりゃいいんだ。
 当のハルヒはこんなこと別に何でもない、といった顔で俺の顔を覗き込んだ後、今日初めての笑顔を見せた。
「うん、いつものあんたに戻ったわね。こんな状況で落ち込むなって言う方が無理でしょうけど、落ち込んだってどうにでもなるもんじゃないでしょ」
 だったら泣いたってどうにでもなるもんじゃないという気もしたが、そこは黙っておいた。ハルヒがめずらしく厚意を見せてくれたわけだし、どうにかしたくて泣いたわけではないのは俺が一番わかっている。
「さっきも言ったけど、何かあったらすぐ泣くなんてSOS団団員としては許し難い行為よ。今日は特別だからね!」
「ああ、わかってる」
 俺だっていつも泣いているわけじゃない。お前は知らないだろうが、お前やSOS団が俺の前から消えたって俺は泣いたりしなかったんだぜ。泣いたのなんていったい何年ぶりだろうな。この年になって、と思う一方で、泣いたことによって結構すっきりしていることにも気がついている。ハルヒが泣いているってのも想像し難いが、もしかしたらこいつも泣くことがあるのかもしれないな。泣くことの効用を知っているのかもしれない。

 もう帰る、というハルヒを玄関まで見送ったとき、俺はある衝動にとらわれて帰ろうとしたハルヒの腕を掴んでいた。
「キョン?」
 驚いた顔をしているハルヒを見て、我に返る。俺は何をしようとしていた?
「あ、いや、今日はありがとな」
 慌てて手を離しながらまだ言っていなかった礼を言った。確かにそれもあって引き留めたんだが、本当は俺は……。
「別にいいわよ。あたしは団長なんだから、団員の面倒見るのも義務なの。仕方ないじゃない」
 それだけ言うと「じゃあね!」と身を翻して出て行ってしまった。あっさりしたもんだ。何だか俺だけ泣いたり照れたりしてバカみたいじゃねえか。


 結局父親は後遺症の心配もなく、3週間後には仕事にも復帰した。それが既定事項だったのか、それとも実はハルヒが何かしてくれたのかはわからない。まだもうしばらくは子供でいられることに安堵している俺は、やはり子供だってことだ。
 とにかく、それとともに俺も微妙に非日常な日常へと戻っていくことになったわけだが、以前とは明らかに自分の中で何かが変わっていることに気がついている。

 あの時、ハルヒを見送るときに感じた衝動──もう一度ハルヒの温もりを感じたい、と思ってしまったその理由をどうやってハルヒに伝えようか、今はそのことばかりを考えているのだから。


  おしまい。